中国,明末の江南の地主階級の知識人を主とする文学結社。天啓年間(1621-27),科挙受験のための八股文(はつこぶん)の評選を行う,一種の予備校的文社が各地に起こったが,太倉の張溥(ちようふ)による応社が,その最初である。1633年(崇禎6)江南の各文社は,蘇州の虎丘に集まり,古学の復興をスローガンとして復社と称し,張溥を盟主として合体した。これはしだいに天下の俊秀を網羅する全国的組織に発展し,科挙に大量の合格者を出すにおよんで,政界の一大勢力にのしあがった。彼らは政治的には東林党の主張を継ぎ,清流を自任して時政批判を始め,当時の政府と鋭く対立した。しかし組織が急速に巨大化したため,腐敗分子による内部矛盾もようやく露呈し,陸文声にその不正を告発されるが,その間に張溥は死に,つづいて明も滅亡する。陳子竜などの抗清殉難者,呉偉業や侯方域などの詩文人,顧炎武や黄宗羲などの考証学の開祖は,みなこの復社の有名メンバーで,明末・清初の時代は,彼らの活動を除いて語ることはできない。清朝は民間の結社を厳禁したので,52年(順治9)すべての文社は解散した。
→幾社
執筆者:福本 雅一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…《易》の〈幾を知る〉という語から,幾社と名づけ,もっぱら学問を講じ文章を競った。当時の復社に対抗したもので,最盛時には100人をこえたが,のち復社に合流する。明が滅びると,清に抵抗して陳子竜と夏允彝も殉難したが,徐孚遠(じよふえん)は遠く台湾にのがれ,海外幾社を作った。…
…清朝考証学の開祖として知られるが,あくまでも明の遺民として生きぬき,異民族王朝の清には終生仕えなかった。帰有光の曾孫帰荘とともに復社に加わっていたが,32歳のとき明が滅び,南京に擁立された小朝廷のため蘇州に従軍する。翌1645年(順治2),清軍は南京に入城し崑山も落城して,養母の王氏は,二姓に仕えるなと遺言して死ぬ。…
…崇禎4年(1631)の進士。同郷の張采(ちようさい)とともに〈婁東(ろうとう)の二張〉と称され,天下の名士を網羅した文学結社〈復社〉の盟主となり,その中から多くの科挙合格者を出し,庶吉士という低い地位でありながら,当時の政界を左右するほどの勢力があった。強引な政治への介入によって権力者に憎まれ,その不法を告発されたが,まもなく死んだ。…
※「復社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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