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黄宗羲 こうそうぎHuang Zong-xi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

黄宗羲
こうそうぎ
Huang Zong-xi

[生]万暦38(1610)
[没]康煕34(1695)
中国,明末,清初の思想家。余姚 (浙江省) の人。字は太冲。号は南雷,梨洲。明滅亡時は義勇軍を組織して清軍に抵抗,滅亡後の順治6 (1649) 年 (日本の慶安2) ,長崎に渡り援軍を請うたが果せなかった。帰国後,清朝の追捕の手を逃れ転々としたが,天下も安定し追及がゆるむと郷里に落ち着いて教育と著述に専念。康煕 17 (78) 年博学鴻儒に推挙されたが辞退し,明の遺老として終った。若くして陽明学者の劉宗周に師事し,客観的事実を重んじ,特に歴史に拠ることを主張した。顧炎武王夫之とともに初三大儒と称される。主著明夷待訪録』は,後世の王者が天下を治める参考に資するという形をとりつつ,封建的思想,制度を鋭く批判し,清末の革命家に大きな影響を与えた。そのほか,それぞれの時代の思想史,哲学史といえる『宋元学案』 (全祖望続修) ,『明儒学案』,日本での体験を記す『日本乞師記』など著書は多い。

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デジタル大辞泉の解説

こう‐そうぎ〔クワウ‐〕【黄宗羲】

[1610~1695]中国、明末・清初の思想家・歴史学者。余姚(よよう)(浙江(せっこう)省)の人。字(あざな)は太沖(たいちゅう)。号、南雷。梨洲先生とよばれた。「明儒学案」を著して実証主義的な清朝史学の礎を築き、「明夷待訪録(めいいたいほうろく)」では為政者を批判、進歩的な政治主張を展開した。

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百科事典マイペディアの解説

黄宗羲【こうそうぎ】

中国,清初の学者。浙江の人。父尊素の獄死のあとを継ぎ,早くから反宦官(かんがん)の政治活動に加わり,復明運動に参加。1644年明が滅ぶと魯王に仕え反清の軍事活動を続け,援軍を求めて長崎に来たこともある。
→関連項目考証学

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世界大百科事典 第2版の解説

こうそうぎ【黄宗羲 Huáng Zōng xī】

1610‐95
中国,明代末から清代初の学者,思想家。字は太沖,号は梨洲,南雷先生とも称せられる。浙江省余姚県の生れ。彼は宦官の魏忠賢の専権横暴を糾弾して獄死した東林党の黄尊素を父としていたので,幼少のときから強い政治意識をいだいていた。崇禎帝の即位(1628)の後,父の名誉は回復されたが,刑部で審問中の魏忠賢一味の許顕純を鉄錐で刺し,同じく李実の賄賂を暴露するなど,宦官派の罪行をきびしく追求した。さらに,当時,宦官派の残党である阮大鋮が政界に自派勢力を拡張しようと画策していたのを阻止するため,復社の社員を含む南京の学生148名を結集して,〈南都防乱公掲〉を発表して指弾した。

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大辞林 第三版の解説

こうそうぎ【黄宗羲】

1610~1695) 中国、明末・清初の学者。浙江省余姚の人。字あざなは太沖、号は梨洲。清代考証学の先駆者の一人。著「明夷待訪録」、明代学術史「明儒学案」、詩文集「南雷文集」など。 → 明夷待訪録めいいたいほうろく

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

黄宗羲
こうそうぎ
(1610―1695)

中国、清(しん)代初期の思想家、学者。字(あざな)は太沖(たいちゅう)、号は南雷、梨洲(りしゅう)。浙江(せっこう)省余姚(よよう)県の人。東林派官僚の子として生まれる。若いころ、殉難した父の名誉回復を求めて政治運動に投じ、清軍南下に際しては義勇軍を組織して抵抗し、援軍を求めて長崎に来航したともいわれる。清朝体制確立ののち著述に専念し、『明夷(めいい)待訪録』『明儒(みんじゅ)学案』『易学象数(しょうすう)論』などの名著を残した。思想はその師劉宗周(りゅうそうしゅう)を通じて陽明学の穏健な側面を継承し、観念論的な心学の横流を批判して、経世済民を志向する実証的学風を樹立した。顧炎武(こえんぶ)、王夫之(おうふうし)とともに清初の三大思想家に数えられ、とくに史学に長じて浙東(せっとう)史学の祖と仰がれた。清末の変法運動に際して『明夷待訪録』が啓蒙(けいもう)に一役買ったことから、「中国のルソー」という異名もある。[佐野公治]

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世界大百科事典内の黄宗羲の言及

【考証学】より

…対象とする領域は,経学を中心に,文字学,音韻学,歴史学,地理学,金石学などきわめて広範にわたっている。 清代の学問の開祖となったのは,経学の方面では顧炎武,史学の方面では黄宗羲である。彼らは,明王朝の滅亡という事態に直面して,強い実践への関心から,明代の学問の空疎なるを慨(なげ)いて実事求是の学問を追求していった。…

【宋元学案】より

…いわば列伝風の思想史。原著は明末の黄宗羲(こうそうぎ)であるが,未完のうちに没したため息子の黄百家が続修,しかしなお完成せず,清の全祖望が引きつぎ,宗羲の玄孫黄稚圭(こうちけい)らの校訂をへて初めて完成した。この書を補った《宋元学案補遺》とともに,宋・元学術史研究の基本資料である。…

【明儒学案】より

…中国,明末・清初の思想家,黄宗羲の著した明代哲学史。1676年(康熙15)ごろ稿成る。…

【明夷待訪録】より

…中国,黄宗羲の政治評論書。明末社会の混乱,明・清の交替を経験した黄宗羲が,その原因理由を考察して,君主専制の否定,民本重民の視角から論陣を張った明末・清初政治評論集の白眉である。…

【李顒】より

…陝西省厔(ちゆうちつ)(今の周至)県の人。若いとき,貧苦のなかで学問にはげみ,経史子集から仏老に至るまで読書し,のち江南各地の書院で教えてその名を広く知られ,孫奇逢,黄宗羲とともに三大儒と称せられた。朝廷から博学鴻詞(はくがくこうし)として招かれたが絶食して拒んだ。…

※「黄宗羲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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