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呉偉業 ごいぎょうWu Wei-ye

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

呉偉業
ごいぎょう
Wu Wei-ye

[生]万暦37(1609)
[没]康煕10(1671)
中国,明末清初の文人,画家。太倉 (江蘇省) の人。字,駿公。号,梅村。崇禎4 (1631) 年進士に及第。南京国子監司業のとき明の滅亡にあい,故郷に引退。順治 10 (53) 年,清朝のたっての招請でやむなく出仕し,秘書院侍講から国子監祭酒になったが,同 13年母の喪のために家に帰り,そのまま故郷近くの梅村にとどまって清朝に仕えたことを悔みつつ世を終った。若くして張溥 (ちょうふ) の門に入って認められ,文学結社「復社」の結成と同時に参加した。若い頃の詩は唐詩を範として華麗な才気にあふれ,明滅亡後は明末の動乱,亡国の悲劇を哀愁をこめて七言古詩にうたい,晩年になるにつれて枯れていった。銭謙益とともに清初の詩壇で指導的な地位にあり,さらに龔鼎孳 (きょうていじ) を加えて「江左三大家」と呼ばれる。でも,清代におけるその復興の先導となり,また書画に長じ,歴史家としても『綏寇 (すいこう) 紀略』などがあり,戯曲『秣陵春』『通天台』などの作もある。作品は『梅村家蔵稿』に収められ,その詩の注釈が清のきん栄藩 (きんえいはん) の『呉詩集覧』,同じく呉翌鳳の『呉詩箋注』などで行われている。

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デジタル大辞泉の解説

ご‐いぎょう〔‐ヰゲフ〕【呉偉業】

[1609~1671]中国、明末・清初の詩人。字(あざな)は駿公。号、梅村。明・清朝に仕え、清の国子監祭酒。清朝の代表的詩人で、長編の古詩にすぐれた。また、画家としても有名。

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世界大百科事典 第2版の解説

ごいぎょう【呉偉業 Wú Wěi yè】

1609‐71
中国,清初の詩人。字は駿公,梅村と号し,江蘇太倉の人。崇禎4年(1631)の進士第二。翰林院編修を授けられたが,明が滅んだとき,殉死しようとして果たさず,のち強いられて清朝に仕え,国子祭酒となった。彼はこうして両朝の臣,すなわち弐臣(じしん)となったことを生涯後悔しつづけ,〈我もと淮王の旧雞犬,仙に従って去らず人間(じんかん)に落つ〉と歌い,死に当たって墓誌銘を人に依頼することを許さず,墓にはただ〈詩人呉梅村〉とのみ記すよう命じた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

呉偉業
ごいぎょう
(1609―1671)

中国、明(みん)末清(しん)初の詩人。字(あざな)は駿公、号は梅村。江蘇(こうそ)省太倉の出身。1631年(崇禎4)の進士。在野の朱子学系の学術・政治結社である復社に加入し、正義派として政界で活躍、官は翰林院(かんりんいん)編修、東宮侍読(じどく)より南京(ナンキン)国子監司業に至った。明滅亡後、さらに福王に仕えたが故郷に引退した。しかし両江総督馬国柱の推挙を拒みきれず清朝に仕え、国子監祭酒となり、2年たらずで母の喪のために辞職した。清朝への仕官を悔いて「述懐詩」をつくり、遺言して「詩人呉梅村之墓」とだけ書かせたといわれる。その詩は、初唐の華麗な作風に学んで才気にあふれ、亡国の悲劇を経験してからは悲壮美を加えるようになった。動乱を詠んだ哀切なる史詩が多い。銭謙益(せんけんえき)鼎孳(きょうていじ)とともに江左の三大家の一人。『梅村家蔵稿』60巻のほか、『綏寇紀略(すいこうきりゃく)』などの明末の記録もある。[佐藤一郎]
『福本雅一注『中国詩人選集2集12 呉偉業』(1962・岩波書店)』

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