中国,清初の詩人。字は駿公,梅村と号し,江蘇太倉の人。崇禎4年(1631)の進士第二。翰林院編修を授けられたが,明が滅んだとき,殉死しようとして果たさず,のち強いられて清朝に仕え,国子祭酒となった。彼はこうして両朝の臣,すなわち弐臣(じしん)となったことを生涯後悔しつづけ,〈我もと淮王の旧雞犬,仙に従って去らず人間(じんかん)に落つ〉と歌い,死に当たって墓誌銘を人に依頼することを許さず,墓にはただ〈詩人呉梅村〉とのみ記すよう命じた。詩は初唐四傑や白居易に影響され,六朝の典故に熟するなど,盛唐のみを祖述する復古派とは異なった傾向をうちだした。ことに古詩にすぐれ,緊密な構成,巧妙な布置は,華麗な詩句に飾られ,編章の長さにおいても,明代の詩人たちをすべて圧倒する。中でも亡国前後の悲劇を歌った長編は哀切を極め,史詩として高く評価される。屈折にすぎる表現や直叙をはばかる比喩は,雄渾な気魄に欠けるが,そのリズミカルな調べは広く愛唱された。銭謙益・龔鼎孳(きようていじ)とともに〈江左三大家〉と呼ばれる。著に《梅村集》があり,その中の詩については,靳栄藩(きんえいはん)の《呉詩集覧》と呉翌鳳の《呉詩箋注》の注釈がある。
執筆者:福本 雅一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中国、明(みん)末清(しん)初の詩人。字(あざな)は駿公、号は梅村。江蘇(こうそ)省太倉の出身。1631年(崇禎4)の進士。在野の朱子学系の学術・政治結社である復社に加入し、正義派として政界で活躍、官は翰林院(かんりんいん)編修、東宮侍読(じどく)より南京(ナンキン)国子監司業に至った。明滅亡後、さらに福王に仕えたが故郷に引退した。しかし両江総督馬国柱の推挙を拒みきれず清朝に仕え、国子監祭酒となり、2年たらずで母の喪のために辞職した。清朝への仕官を悔いて「述懐詩」をつくり、遺言して「詩人呉梅村之墓」とだけ書かせたといわれる。その詩は、初唐の華麗な作風に学んで才気にあふれ、亡国の悲劇を経験してからは悲壮美を加えるようになった。動乱を詠んだ哀切なる史詩が多い。銭謙益(せんけんえき)、龔鼎孳(きょうていじ)とともに江左の三大家の一人。『梅村家蔵稿』60巻のほか、『綏寇紀略(すいこうきりゃく)』などの明末の記録もある。
[佐藤一郎]
『福本雅一注『中国詩人選集2集12 呉偉業』(1962・岩波書店)』
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