中国,明末に東林書院を中心に活動した政治的党派。また学派として東林学派ともよばれる。万暦年間(1573-1619)顧憲成,高樊竜(こうはんりゆう)らは,立太子問題と関連して時の内閣と対立,郷里無錫(むしやく)に帰って東林書院を設立し,同志を糾合して講学活動を行った。その学問は,陽明学末流の空疎に反対し,政治の改革と民生の安定に役立つ実践的な学問を提唱したものであった。この書院には,江南を中心に,時の政治に不満を持つ在野の人士が集まって,当面する政局を論じ,政府を批判して,相当の影響力をもった。万暦末年から泰昌・天啓初年にかけて,皇帝権をめぐっていわゆる三案(挺撃(ていげき),紅丸,移宮の3問題)が発生すると,彼らは反対派の陰謀を追及して,はげしい論争を展開する。そして一時政界に復帰したものの,宦官魏忠賢を中心に閹党(えんとう)が形成され,特務機関(東厰)を利用した一種の恐怖政治が行われると,その血なまぐさい弾圧に遭遇しなければならなかった。〈東林点特録〉などのブラック・リストが作成され,東林党の主要な活動家は逮捕されて獄死,東林書院も閉鎖されて東林党はまったく勢力を失った。
しかしこの東林党人逮捕の際に,逮捕に抗議する民衆の反乱が各地でおこった。東林党の活動が,民衆の一定の支持を獲得していたことのあらわれである。天啓帝の死後,魏忠賢は自殺,東林党は再び政界に復帰し,閹党を糾弾する〈逆案〉が発表されるが,閹党の活動はその後も引き続き,党争のうちに明王朝は農民反乱と満州の侵入によって滅亡した。東林党に結集した人々の多くは江南デルタの経済的先進地帯の出身であった。しかし同郷をもって集まった集団ではなかった。当時の腐敗した政治を改革してゆくべく,同志を糾合した政治集団であって,反対派に対抗してゆくためには,このような党が必要であることを,彼らは積極的にみとめていた。その意味で東林党は未熟ながらも一種の政党であり,その党争は,当時の社会経済的発展を政治過程に反映したものであった。
執筆者:小野 和子
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中国、明(みん)末期の政治的グループに冠せられた呼称。1604年、顧憲成(こけんせい)、高攀龍(こうはんりょう)らが江蘇(こうそ)省無錫(むしゃく)県にあった東林書院を再興し、陽明学末流の無善無悪派を批判すべく講学活動を始めたのがこの名のおこりである。のちにこの講学に参集した人士やそれらと交遊の深い人士たちが、万暦帝や帝を取り巻く魏忠賢(ぎちゅうけん)ら宦官(かんがん)一派の恣意(しい)的な徴税などに反対し、この対抗は権力抗争として天啓帝の時期にさらに激化した。このため、魏忠賢は1625~26年にかけて大弾圧に乗り出し、楊漣(ようれん)、左光斗(さこうと)、魏大中(ぎだいちゅう)ら6人を逮捕虐殺したうえ、自分への反対者とみなす人士を列挙した東林党人榜(じんぼう)なるブラックリストを公表し、さらに弾圧を加えた。のち29年に名誉回復が行われたが、清流、正直とみなされる人士が広く東林学派と目されて、魏忠賢事件に関係のない人士も多数含めて『東林書院志』のなかに列記された。このような経緯から、実際のところ、いわゆる東林学派の範囲はあいまいで、ましてそういう党派が実在していたわけではない。しかし、このようにして挙名された人々の間には一定の共通性がある。彼らは里甲制解体期といわれる明末に、王朝権力の恣意に反対して士人層の声を公論として主張、具体的には特権大地主の強横を批判して均田均役を主張し、郷約(きょうやく)、保甲(ほこう)の整備、民衆の道徳的教戒の強化を図るなど地主主導の郷村秩序の再編に努めた。また水利事業など農業技術の開発、奴僕(ぬぼく)層の融和を図るなど、開明的な色彩をもつ。
[溝口雄三]
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明末の政治的党派。1604年正義派官僚で下野していた顧憲成(こけんせい)らが,郷里の江蘇省無錫(むしゃく)で東林書院を建設し学を講じた。以後彼らは在野の同志を集めて痛烈に政治を批判し,在朝の東林派官僚と結んで政治活動を行った。1620年代初め東林派官僚は政界の主勢力となったが,宦官(かんがん)魏忠賢(ぎちゅうけん)と結ぶ反対派に弾圧された。崇禎(すうてい)帝の即位とともに魏忠賢が失脚し,東林派が再び登用されたが,党争は明の滅亡まで絶えなかった。
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…ついで王安石の改革をめぐって新法党と旧法党との間に激しい党争が行われた。 明代には,万暦年間(1573‐1619),無錫(むしやく)の東林書院を中心に顧憲成らの東林党が起こって在野から政府の失政を厳しく追及した。しかし宦官魏忠賢らの大弾圧に遭遇して東林書院は閉鎖され,指導的メンバーは虐殺されねばならなかった。…
※「東林党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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