徳丸原(読み)とくまるがはら

日本歴史地名大系 「徳丸原」の解説

徳丸原
とくまるがはら

荒川南岸に広がる低湿地。近世を通じて周辺の徳丸本とくまるほん村・徳丸脇とくまるわき村・徳丸四ッ葉とくまるよつば村・上赤塚かみあかつか村・下赤塚村・成増なります(上赤塚村に含まれる場合もある)の六ヵ村が馬の飼料肥料を採取する秣場の入会地であった。北を荒川、東を同川に注ぐ前谷津まえやつ川に限られた現在の高島平たかしまだいら一―九丁目・新河岸しんがし一―三丁目・三園みその一―二丁目の一帯にあたる。正保国絵図などにも芦の生える湿原が描かれ、延宝五年(一六七七)徳丸村絵図(安井家蔵)には「いるま川より下練馬堺迄千六百八拾弐間内、(中略)作場より大川迄六百四拾間芝間」と記され、この芝間が徳丸原に相当する。なおここでの「いるま川」「大川」は現在の荒川をさす。将軍家の鷹場内に位置し、徳丸原には鶴寄せ土手も築かれる一方、荒川沿いに堤防が築かれなかったのはこのためであったともいわれる(板橋区史)。享保六年(一七二一)の絵図(安井家蔵)には徳丸原のなかに「御用池」が描かれており、他の絵図(同家蔵)には「白鳥池」や「鶴寄土手」が記述されるなど、大型の渡り鳥を捕獲するための池なども存在した。その一方で、享保六年には渡辺長左衛門が「からくり筒」の試射をしており、「鉄砲稽古場」として機能していた(安井家文書)。天保一二年(一八四一)五月九日には、高島秋帆により西洋式砲術演習が行われ、徳丸原の名は有名になった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報