日本歴史地名大系 「板橋区」の解説 板橋区いたばしく 面積:三二・一七平方キロ当区域の大部分は武蔵野台地上に位置し、北端を東流する荒川との間に沖積低地が広がる。東は北区、南は豊島区、西は練馬区、北西は白子(しらこ)川を境に埼玉県和光市、北は荒川を境に同県戸田市に接する。北部を新河岸(しんがし)川、南部を石神井(しやくじい)川が東流し、かつては区域を水源とする前谷津(まえやつ)川・蓮根(はすね)川・出井(でい)川などが新河岸川に合流していたが、現在はいずれも暗渠ないしは緑道となっている。なお区域を水源とするこれらの河川は、近代に入って新河岸川が開削される以前には荒川に合流していた。東端部を南北に走る国道一七号はほぼ旧中山道と重なり、北西部を縦断する新大宮バイパス(国道一七号)は一部が首都高速池袋線とも重なり、池袋線は区域を横断して走る。南部では川越街道(国道二五四号)と環七通(主要地方道環状七号線)が交差するように、道路網が発達している。鉄道は東武東上線と都営地下鉄三田線が走っている。〔原始〕旧石器時代は荒川および石神井川流域に、立川ローム第IX―VII層下部段階と第V―IV層下部段階の遺跡が数多く存在している。成増(なります)との山(やま)・大門(だいもん)・菅原神社台地上(すがわらじんじやだいちうえ)・茂呂(もろ)の各遺跡で出土した資料からは石器製作技術などがとらえられる。縄文時代に入ると、早期撚糸文期の住居跡が二〇軒検出された前野田向(まえのたむかい)遺跡をはじめ遺跡が増加。前期前半の縄文海進期に遺跡数は最多となり、荒川流域では中台馬場崎(なかだいばばさき)貝塚・四枚畑(よんまいばた)遺跡・四葉(よつば)遺跡などで貝塚の形成も認められる。中期は希薄であるが、後期から晩期前半に再び遺跡数は増加し、赤塚城址(あかつかじようし)貝塚・小豆沢(あずさわ)貝塚などの遺物からは漁労活動の活発化がうかがわれる。弥生時代は中期後半に集落が出現し、後期から古墳時代前期には荒川低地に面する要所に菅原神社台地上・四葉・志村坂上(しむらさかうえ)の各遺跡ほかの大規模集落が形成される。低地も積極的に利用され、石神井川流域も含め集落数の爆発的な増加と分布の拡大が認められる。古墳時代後期になると、大規模集落は存在するものの遺跡数は減少し、規模の大きな古墳群も存在しない。〔中世〕古代律令制下の当区域は豊島郡に所属し、「和名抄」にみえる広岡(ひろおか)郷が所在していたとみられる。中世の区域には板橋(郷)・志村庄・赤塚郷が存在したとされる。これらは豊島氏領だが、仁治二年(一二四一)豊島時光が博奕の咎により所職・所帯を没収され(「吾妻鏡」同年四月二五日条)、鎌倉幕府の領地となり、のち得宗領となったと推測される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「板橋区」の意味・わかりやすい解説 板橋〔区〕いたばし 東京都 23特別区の1つ。 1932年区制。 47年特別区制。地名は石神井川にかかる板橋に由来する。南部は武蔵野台地に属する高台。北部は荒川沿いの低湿地。板橋区役所付近は中山道における江戸の出入口として栄えた宿場町。史跡に志村一里塚がある。中山道,川越街道,東武鉄道東上線沿いを除く大部分は 55年頃まで近郊農村であったが,以後急速に市街地化。荒川,石神井川沿いに工場が進出。東武東上線や川越街道 (国道 254号線) の沿線が宅地化し,さらに交通機関に恵まれなかった北部の旧水田地帯に都営地下鉄三田線が開通し,高島平を中心に流通基地,大規模住宅団地が建設された。荒川南岸の河川敷には荒川戸田橋緑地がある。北野神社,諏訪神社の五穀豊穣を祈願する田遊びは重要無形民俗文化財。首都高速5号池袋線が通り,高島平,中台など5ヵ所のインターチェンジがある。面積 32.22km2。人口 58万4483(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by