徳久村(読み)とくひさむら

日本歴史地名大系 「徳久村」の解説

徳久村
とくひさむら

[現在地名]辰口町徳久・荒屋あらや松が岡まつがおか

下開発しもかいほつ村の北西に位置する。西は高座こうざ村で、同村北部から当村西部にかけての小丘陵は西にし山とよばれている。また荒屋地区は一七世紀末に当村南部の荒野を開発して成立した垣内である。

天文五年(一五三六)閏一〇月徳久村など五ヵ所の幕府料所代官となった幕府政所執事伊勢貞孝は、加賀に対する本願寺の影響力を頼み、年貢納入の口添えを依頼、本願寺一〇世証如は二日後、在地へ奉書を下した(「天文日記」同月九日条・一一日条)。しかし年貢収納ははかどらず、同七年九月九日、貞孝は在地代官について先年来交渉してきた白山長吏の同意を得られなかったため、京都相国しようこく寺の興禅軒と契約を結ぶこととし、改めて本願寺に在地への口添えを求めた(同書同日条)


徳久村
とくひさむら

[現在地名]筑後市徳久

やま川流域に位置し、南西は秋松あきまつ村、西は羽犬塚はいぬづか村。中世は広川ひろかわ庄のうち。天福二年(一二三四)二月日の坂東寺所役注文案(岡本文書/鎌倉遺文七)に「得久名十六町八反」とみえ、坂東ばんどう寺の造営料足段銭五貫四〇文と、九日会の饗膳を賦課されている。嘉禎三年(一二三七)には坂東寺の鳥居より西方の釘貫(柵)二間分を賦課され(同年九月二八日「公文所下文案」同上)、寛元三年(一二四五)には御供屋間口五間のうち二間分を秋松名・吉富よしとみ名とともに負担するよう定められている(同年一〇月六日「広川庄鎮守神役支配状案」同文書/鎌倉遺文九)


徳久村
とくひさむら

[現在地名]今治市上徳かみとく

今治平野南部の村。天保郷帳に村名はないが、文化元年(一八〇四)上神宮かみしんぐう(拝志上)村から分村した(伊予国越智郡地誌)境界は、上神宮村と錯綜して複雑であるが、ほぼその北部を占め、竜登りゆうと川により鳥生とりう村に接する。

徳久村の名はすでに貞享二年(一六八五)の寺社明細言上書に、姫坂ひめさか神社の氏子として上神宮徳久村とみえる。貞享五年の地平均検地帳では徳久分田三〇町余、畑二町二反、高四〇三石余と記され、宝暦一三年(一七六三)の野取帳には「拝志上村野取帳内より徳久分引分候」とあり、畝数合計四〇町余であった。


徳久村
とくひさむら

[現在地名]会津若松市門田町徳久もんでんまちとくひさ

阿賀川東岸に位置し、若松城下の南にあたり、東は中野なかの村、西は飯寺にいでら村。南から北へまつ堰と門田堰が流れる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沼郡のうちに記され、高五八八石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高八一〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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