徳市村(読み)とくいちむら

日本歴史地名大系 「徳市村」の解説

徳市村
とくいちむら

[現在地名]世羅町徳市、双三ふたみ吉舎きさ町徳市

山中福田やまなかふくだ(現世羅西町)の東に位置。西を除く三方を山に囲まれ、南から西へ流れる黒淵くろぶち川、東流する津田つた川を合わせて北流する馬洗ばせん川の流域と谷々に展開する農村。中世には大田おおた大田山中やまなか四郷のうちの吉田よしだに相当し、近世には山中庄六ヵ村のうちとされた。「芸藩通志」は里祠の棟札に「山中郷礒之垣内村」とあると記す。

嘉禎二年(一二三六)九月二七日の備後国大田庄山中四郷在家目録(高野山文書)によると、吉田には地頭公文田所・惣追捕使・専当などの在家五一宇があり、四郷のうち最も規模が大きい。嘉元四年(一三〇六)九月七日の関東下知状(同文書)によると、大田庄雑掌頼覚と山中郷地頭富部信連との間に相論が起こり、吉田村三一坪すなわち杤畑とちばた百姓は領家の進止だと主張する雑掌に対し、自名宮吉みやよしの百姓とする地頭の主張が認められている。


徳市村
とくいちむら

[現在地名]高岡市戸出徳市といでとくいち

春日吉江かすがよしえ村の北、射水いみず郡境に位置し、北は射水郡二塚ふたづか村。元和五年(一六一九)の家高新帳に戸出又右衛門組に属して村名がみえ、役家数二。正保郷帳では高一〇二石余、田方五町三反余・畑方一町五反。野地が多かった。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一七八石・免三ツ七歩、同四年の新田高一一石、小物成は鱒役三匁(三箇国高物成帳)。庄川に接しており、洪水のため田地が失われた。延宝五年(一六七七)には八三石、元禄一一年(一六九八)には三六石の川崩れ引高が認められ、天保一〇年(一八三九)の高五九石(「高物成帳」菊池家文書)


徳市村
とくいちむら

[現在地名]敦賀市三島みしま

しようノ川下流左岸若狭街道に沿って位置し、今屋敷いまやしき新田しんで田島たじまの各村と交錯する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図ではしま郷に属し、正保郷帳では田方三〇七石余・畠方一三石余。なお天和二年(一六八二)の「遠目鏡」に「猿廻シ 徳市村より出ル」とみえる。

享保一二年(一七二七)には庄屋五郎大夫、睦月銀一匁五分、入草銀二七匁、新出来米二石余、夫役六分、夫米四俵三斗余、馬足一二疋、外高一四石余、牡馬七、家数三一、うち高持一七・無高一三・寺一、人数一四六、ほか借家五人(敦賀郷方覚書)。さらに同書は、無高の村として「三之丸」をあげ、家数二一、うち高持一・無高一八・津内村高持一、人数六七、ほか借家一〇人、牡馬二と記すが、庄屋も置かれず小物成の負担もない。


徳市村
とくいちむら

[現在地名]吉舎町徳市、世羅郡世羅町徳市

徳市村(世羅郡)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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