吉舎町(読み)きさまち

日本歴史地名大系 「吉舎町」の解説

吉舎町
きさまち

[現在地名]吉舎町吉舎

三次みよし盆地東南端に位置し、瀬戸内海尾道から備後北部を結ぶ石見路(赤名越)や、福山城下上下じようげ陣屋(現甲奴郡上下町)などと石見国を結ぶ石州路に沿った近世宿場町

中世、和智氏の拠城南天山なんてんざん城の西麓桜谷さくらだにに、のち古市ふるいちとよんだ市が成立し、若干の手工業者が定住したのが吉舎町の始まりで、その後、吉舎村の東端宇賀峠うがだおから西へ張出す扇状地の扇央部に四日市よつかいちが、またこれとほぼ並行する形で馬洗ばせん川沿いに七日市なぬかいちが成立し、時期ははっきりしないが、戦国期頃には宿場町として町人の定着をみたものと考えられる。近世に入ると、古市は衰微し、四日市・七日市の二筋の町人街を吉舎町とよび、村役人とは別に町年寄以下の町役人が置かれた。「芸藩通志」の「三谿郡官道駅站」の項に、吉舎宿について「伝馬十七匹を設く、南は世羅郡甲山駅、西北は三次郡三次駅へ各五里、東甲奴郡上下駅へ三里」と記す。享保六年(一七二一)の吉舎村万指出帖控(松山家文書)によると、四日市は長さ一町・家数二〇軒、七日市は長さ三町二〇間・家数四八軒であった。

吉舎町
きさちよう

面積:八四・八八平方キロ

三次みよし市を挟んで三地区に分割される双三郡のうち、東南部に位置する。中央を世羅郡から流れる馬洗ばせん川が北流、また町の東端を甲奴こうぬ郡から流れる上下じようげ川が北流し、この二つの川とその支流沿いに帯状耕地が分布する。当町は三次盆地の東南端にもあたり、古来尾道や三原など備後南部の瀬戸内海から世羅台地を経て備後北部へ達する出入口の一つにあたっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報