日本歴史地名大系 「忍城跡」の解説
忍城跡
おしじようあと
中世末期から近世にかけての平城の跡。県の旧跡に指定される。築城は一五世紀後半。標高二〇メートル前後の平坦地にあるが、荒川扇状地扇端から南東に広がる湿地や自然堤防を利用して築城されている。城下町にあたる現在の市街地は、島状に残ったローム台地に形成されているなどその地形は複雑である。
〔中世成田氏の時代〕
忍城の所在地は平安時代末期に成立した国衙領忍保の領域で、在地領主忍氏が支配していた。しかし、忍氏の館と忍城との直接的なつながりについては不明である。忍城の初見と思われる史料は、文明一一年(一四七九)閏九月二四日の足利成氏書状(別符文書)である。長尾景春の乱中、景春が長井六郎の要害に籠ったとき、山内上杉顕定が
永正六年(一五〇九)一〇月、連歌師柴屋軒宗長は忍城で連歌の千句興行を行ったが、宗長は広大な沼に四方を囲まれた忍城の冬枯れの光景を「武州成田下総守顕泰亭にして、あしかものみきはは雁の常世かな、水郷也、館のめくり四方沼水幾重ともなく蘆の霜がれ、廿余町四方へかけて、水鳥おほく見えわたりたるさまなるへし」と「東路の津登」に描写している。なお、同書には成田顕泰とあるが、顕泰は文明一六年に没したとされているので(「龍淵寺年代記」東京大学史料編纂所蔵影写本)、子の親泰の誤りであろう。親泰は山内上杉氏に臣従していたが、永正九年六月、古河公方家、関東管領家の内訌で足利政氏・上杉顕実を支持して敗れ、上杉憲房に親泰と親類、同心たちの所領を没収されて、所領は横瀬景繁に与えられた(七月七日「長尾禅香書状」由良文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報