日本歴史地名大系 「行田町」の解説
行田町
ぎようだまち
中世末期から近世末まで続いた
寛永版「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条に載る同月一四日の山城宇治橋合戦手負人のなかに行田兵衛尉がみえ、「風土記稿」は当地名を名字とした武士とする。地名の由来について、行田を「なりた」と読んで、忍城を築城した成田氏に由来するとの説が流布したことがあったが、これは高田(小山田)与清の「松屋筆記」や「増補忍名所図会」の説を敷衍したものであろうか、いささか牽強のきらいがある。また「鎌倉武鑑」を引いて寿永年間(一一八二―八五)この地が成田氏の領地であったとする説もあったが、同書は近世後期の編纂物なので、徴証とするにはいささか無理があろう。
〔成田氏時代〕
一五世紀後半の成田氏の忍築城によって、城内に囲込まれた
〔近世行田町の構成と発展〕
近世に入って兵農分離が徹底的に行われると、武士を農村から強制的に集住させるために、中世末期からあった城下町に都市計画の手を加えた所が多く、武家町が町域の大部分を占める城下が一般的なようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報