行田町(読み)ぎようだまち

日本歴史地名大系 「行田町」の解説

行田町
ぎようだまち

[現在地名]行田市行田

中世末期から近世末まで続いたおし城の城下町。城の北東に位置する。忍城は河川乱流跡に形成された自然堤防上に立地するとみられているが、その城下町行田は地質図によれば、関東ローム層による洪積台地の末端に乗っている。近世には城を忍城とよび、城下町を行田と言い習わしてきた。しかし寛政期(一七八九―一八〇一)に作られた地誌「武蔵志」は「行田城 世人忍ノ城トモ唱フ」と述べ、当時行田城という呼び方もあったことを伝えている。なお川越・岩槻の城下町は「町村」あるいは「町分」として城主への領知目録に入っているが、寛文四年(一六六四)徳川綱吉阿部忠秋宛朱印状并領知目録(寛文朱印留)には「行田町」もしくは「行田村」は記載されていない。

寛永版「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条に載る同月一四日の山城宇治橋合戦手負人のなかに行田兵衛尉がみえ、「風土記稿」は当地名を名字とした武士とする。地名の由来について、行田を「なりた」と読んで、忍城を築城した成田氏に由来するとの説が流布したことがあったが、これは高田(小山田)与清の「松屋筆記」や「増補忍名所図会」の説を敷衍したものであろうか、いささか牽強のきらいがある。また「鎌倉武鑑」を引いて寿永年間(一一八二―八五)この地が成田氏の領地であったとする説もあったが、同書は近世後期の編纂物なので、徴証とするにはいささか無理があろう。

〔成田氏時代〕

一五世紀後半の成田氏の忍築城によって、城内に囲込まれた内行田うちぎようだ地区(現忍二丁目)で古墳時代後期の集落跡が確認され、土師器・中世陶磁器片も出土しており、古代から中世にわたって集落が存在したと考えられる。築城に際して外堀に囲込まれたこうした集落が移動させられて、行田町が形成されたと考えられる。「忍城戦記」「関八州古戦録」「三河後風土記」などの軍記物によれば、忍城の行田口(のちの大手門)の外側に行田町を通り抜けて長野口ながのぐち門があり、天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉軍による攻城戦に際し、一度は長野口が破られたが、再び大手行田口から敵軍を押返したという。築城当初から行田は外堀に囲込まれて城郭の一角になっていたようである。もと当地は隣村谷之郷やのごうの地だったので、「谷之郷行田町」ともよばれた(風土記稿)

〔近世行田町の構成と発展〕

近世に入って兵農分離が徹底的に行われると、武士を農村から強制的に集住させるために、中世末期からあった城下町に都市計画の手を加えた所が多く、武家町が町域の大部分を占める城下が一般的なようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報