日本歴史地名大系 「志戸橋村」の解説
志戸橋村
しとばしむら
志戸橋の初見は永禄八年(一五六五)の畠山家文書で
とあるが、一揆の内容は不明。
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、「弐百廿五石三斗九升四合 大森村 志と橋村」とある。大森村は檜山町の支郷で、志戸橋村に隣接する。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)には一八八石余が記される。また湊・檜山両家合戦覚書(秋田家文書)に「檜山ノ西南ニアタツテカトウドヲトリデトシテ合戦ヲイトム」とあり、「カトウド」城が湊合戦の要衝として現れるが城の所在地は、「檜山ノ西南」であり、志戸橋村と金光寺村の境塚改願(河村家文書)に「嘉藤戸道向より大木ケ台」とあるので、両村の境付近にあてる説もある。
佐竹氏移封後、志戸橋村開発の差紙を得たのは羽生氏で、元和三年(一六一七)の御指紙写(河村家文書)に「志戸橋村之内新開、式部殿より可被仰付旨、尤ニ奉存候」とある。
志戸橋村
しとばしむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報