中沢村
なかざわむら
[現在地名]鎌ヶ谷市中沢・北中沢一―三丁目・東中沢一―四丁目・富岡三丁目・初富本町二丁目・道野辺中央一丁目・同三丁目・同五丁目
道野辺村の西に位置する。北側には中野牧が広がり、西は串崎新田、大町新田・大野村・柏井村(現市川市)、南は藤原新田(現船橋市)。中沢川(中流部は大柏川)の最上流部を占める。延文三年(一三五八)五月三日、弘法寺(現市川市)日樹が日宗に与えた置文(弘法寺文書)に、市河村(現市川市)・釜谷などとともに、「中沢」がみえ、毎月一三日・一五日の講会が開かれる地であった。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)には三谷兵庫分として「中沢 田数六町三反小」とあり、分銭は予定額では一貫五九四文であったが、同一四年二月二三日の納入時には一貫五八四文となっていた。長禄元年(一四五七)一二月一三日、浄光院(現市川市)日慮は日院によって中沢郷惣導師職に補任されている(康正三年一二月一三日「日院補任状」浄光院文書)。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]遠野市青笹町中沢
六角牛山(一二九四・三メートル)西麓に位置し、北西は青笹村、南西は板沢村、南は佐比内村。中沢川が西流して早瀬川に合流する。六神石神社にあった応永三五年(一四二八)六月一日銘の鰐口に「中沢之郷六角牛山大権現」とあったが、鰐口はその後失われた(六神石神社記録・岩手県金石志)。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、中沢村の高二二一石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。元禄十郡郷帳による〆高は田方一六一石余・畑方一七五石余。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]長岡市中沢町・中沢一―四丁目・美沢一―三丁目・中貫町一―三丁目・若草町一―三丁目
西は四郎丸村・土合村、北西は川崎村、北東は野崎村、東は西片貝村・常願寺村・栖吉村、南は悠久山・蒼柴神社・長倉村方面に通じる道が開ける。長岡町東部の要衝の地に位置する。南は悠久山に迫ってやや高く、北に至るに従って緩傾斜する。天正村名考(温古之栞)には「中の沢八十三軒・やち原十軒・四清水十二軒・平岡三十二軒」と伝える。中の沢は中沢、やち原は谷内、四清水は谷内の枝村吉水、平岡は中沢のうちで、それらの集落は後世中沢村と総称された。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]富里町中沢
新橋村の東に位置。北は佐倉牧の一つ内野牧、南は柳沢牧で、高崎川両岸を村域とする。印東庄のうちで、平安時代末期の下総国印東荘郷司村司交名(醍醐寺本醍醐雑事記七・八裏文書)に「中沢苅田弘益」とみえる。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)によると、三谷兵庫が中沢に六町三反余の所領を有していた。ただしこの中沢を現鎌ヶ谷市中沢にあてる説もある。文禄三年(一五九四)に検地が実施され、現存する田方分のみの検地帳(原家文書)によれば、名請人は立沢村からの入作者五人を含む九七人で反別四五町余。寛永二年(一六二五)当時、一二三石余が旗本成瀬領であった(知行宛行状)。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]鶴岡市中沢
海岸沿い丘陵部の東麓にあり、北東は大戸村・荒沢村。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高三七四石余。寛永元年庄内高辻帳では高一七七石余、正保郷帳では田高一七二石余・畑高四石余、柴山がある。慶応元年(一八六五)の御用手控(斎藤文書)では高一九一石余、田高一三五石余・畑高五六石余、免五ツ二分五厘、山年貢二斗余、家数二八。嘉永四年(一八五一)には家中古川儀兵衛分八〇石、芳賀九郎右衛門分五〇石の小物成所となっている(「役人前諸文言」中沢区有文書)。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]栗東町中沢
小柿村の北西、葉山川南岸平地に立地。中山道が西境を抜ける。
神社の嘉暦四年(一三二九)の本殿棟札写(菌神社蔵)に宮座を構成したモロトとして沙弥定阿・同蓮仏・僧定実・沙弥聞阿・菅真俊・沙弥浄仏の六名(六人衆)が記されている。また綣村の大宝神社の氏子村で、同社の祭礼に七番役を勤仕した(大宝神社文書)。慶長検地では高三二九石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]浜松市中沢町・下池川町・城北一丁目・住吉一丁目
下池川村の北に位置し、北は高林村。浜松宿を起点とする秋葉道が下池川村天林寺下堤から北上し、当村を貫いて高林村に至った(旅籠町平右衛門記録)。天正一八年(一五九〇)一二月二六日の豊臣秀吉朱印状(常楽寺文書)に「浜松庄中沢常楽寺領之事」とみえ、浜松庄内であった。松平忠頼領郷村帳では高四八石余、畑六町八反余、ほかに常楽寺領一六石。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]能代市中沢
東に檜山町、北に扇田村がある。志戸橋野(現山本郡山本町)に続く台地の北縁にあり、平地は少ない。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、「百三拾五石八斗壱合 中沢村 たち村」とある。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に檜山の内とある。享保一四年(一七二九)の御判物御国絵図御用留書(県立秋田図書館蔵)に「古絵図ニ無高ニ而郷形御座候、今度相改申所ニ高出申候ニ付新絵図ニ記申候」とある。同一五年の「六郡郡邑記」に中沢村五軒、慶安年間(一六四八―五二)に支郷犬伏村・下中沢村が成立したとある。村内の蟹子沢台と荷村台は安永七年(一七七八)頃から機織村の草飼入会地で、「酒代受取草浦一ト通年限売置候」となっていた。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]新座市片山一―三丁目など
十二天村の南東にあり、黒目川右岸の沖積低地と、南の武蔵野台地朝霞面からなる。台地と沖積地の境が崖となり、数ヵ所の湧水があるのが村名の由来という(風土記稿)。北東は下中沢村、西は石神村の飛地、南西を辻村と村境が入会い、南東は小榑村(現東京都練馬区)。北東部の黒目川左岸に辻村・原ヶ谷戸村に囲まれた飛地がある。近世前期に片山村から分郷した村で、寛文元年(一六六一)野火止新田の出作に参加して中畠二町六反余・下畠二町一反余を名請した(「野火止出作方年貢割付状」旧大和田町役場文書)。元禄郷帳では「片山中沢村」とみえ、高一〇〇石。田園簿にみえる片山村のうち旗本米津領三〇石に相当するとみられ、同氏の加増・転封により久喜藩領となる。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]富岡市中沢
大桁山の東麓に位置し、東部から南部を下仁田道が抜ける。東は神成村、北は蚊沼村、南は南蛇井村と接する。近世はおおむね小幡藩領。文政前後の領内村々書上帳(松浦文書)によると田一〇町三畝余・畑二四町三反六畝、ほかに新畑四町七反余などがある。小物成に真綿一〇把、大豆三石一斗余、四季打鉄炮六を所持した。家数六〇・人数二六八。薪は楢原村枝郷白井村(現多野郡上野村)と入会山の北沢山の「屋敷中あれ」で伐った(享保一七年「入会薪伐証文」黒沢文書)。また享保二年(一七一七)代官久保田就職後は同村枝郷の浜平村(現同上)とともに山中御林での山稼を許され、山稼品の白井関所の通行も認められていた。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]城山町中沢
東は上川尻村、西は三井村(現津久井町)、南は相模川に接し、河岸段丘上の村で、対岸は津久井城跡のある城山である。小田原衆所領役帳に内藤左近将監「三拾貫文 東郡中沢之村」とある。
近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領、文政一一年(一八二八)小田原藩領。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]蓬田村中沢
東は陸奥湾に臨み、南と西は四戸橋村(現青森市)、北は長科村に接する。建武二年(一三三五)三月一〇日の北畠顕家国宣(遠野南部文書)に次のようにある。
<資料は省略されています>
外ヶ浜では比較的早くから開けたと思われるが、貞享元年(一六八四)の郷村帳では田舎庄の新田に村名があり、村高五一五・七石。同四年の検地帳が欠けているため、田畑の内訳など詳細は不明。元禄三年(一六九〇)には後潟組に属し、村位は下(平山日記)。享和二年(一八〇二)の伊能忠敬の「測量日記」に家四二軒、海へは四、五〇間、また二、三〇間とある。
中沢村
なかつさわむら
[現在地名]茅野市玉川 中沢
小泉山の南東にあり、北部を柳川が西流し、集落を南北に大門道(善光寺道)が通じている。嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「中沢ニタルノゴセ」とあるのを初見とする。中世以降の古村で、天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)には「高百三拾石七斗 中沢郷」とあり、同村には文禄四年(一五九五)の「み出名寄帳 中沢村中沢」(中沢共有)が残っている。江戸時代早くより中沢大根の名で知られ、「諏訪郡諸村並旧蹟年代記」には「中沢大根とて年々盆前ニ弐駄ツヽ御上納御殿様御直書の御請取在り」とある。当村を親村として田道新田と中道新田が出ている。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]日高市中沢
女影村の南東にあり、東は高萩村、西は枝郷の向郷村。小畔川の小支流が北東へ流れる。高麗郡加治領に属した(風土記稿)。天正一九年(一五九一)七月内藤織部(種次)に中沢之郷一三一石余が与えられた(記録御用所本古文書)。以後幕末まで旗本内藤領。田園簿では田七七石余・畑五四石余で日損場と注記される。東・西・北に持添新田計三ヵ所があり、享保一〇年(一七二五)に検地が行われた。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]古川市中沢
鳴瀬川と多田川に挟まれた穀倉地帯の低平な土地で、「安永風土記」に「往古ハ当郡坂本村天性寺裏迄引続大沢ニ而当村ハ其中ニ有之候故中沢村と唱来候」とあり、大沢すなわち大谷地の中ほどにあった地という。北と西は堤根村、東は新沼村(現志田郡三本木町)、南は鳴瀬川を挟んで坂本村(現三本木町)に接する。正保郷帳に田一二貫三〇三文・畑七貫六五〇文とあり、ほかに同所新田五八貫八七五文がある。近世初期の新田開発の大きかったことがわかる。「安永風土記」によれば、田八三貫七三九文・畑一四貫七五九文で、蔵入は九貫六八文、給所は八九貫四三〇文、人頭三八人(うち沽却禿八)、家数六七(うち名子七・水呑一・借屋二一)、男一六三・女一一七、馬二六とあり、田の大部分は多川堰の水を受けている。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]長浜市泉町
国友村の南に位置し、南は口分田村、西は新庄寺村。寛永石高帳によれば高三三七石余、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免五ツ七分。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男六一・女六四、寺社方男四・女四。明治八年(一八七五)の正副戸長役料伺書(中沢共有文書)によれば田一八町八反余、家数二四。宝暦一三年(一七六三)、寛政二年(一七九〇)などに立毛不作を理由に検見を願って免引を請い、同六年には検見前に守るべき規定を、また同五年・明和元年(一七六四)には検見後に守るべき規定を定め彦根藩の役人に提出している(同文書)。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]静岡市中沢
安倍川とその支流中河内川の合流点の西に位置し、西は桂山村。戦国期には三輪郷に属した。永禄一〇年(一五六七)一〇月に安倍川中流やその支流の中河内川・西河内川流域の諸村を書上げた貫高注文写(宮本勉氏所蔵文書)に狩野敷部の名で「中沢村山屋敷」三貫文がみえる。天正一二年(一五八四)一二月三日に作成され、徳川氏奉行中に提出された三輪郷棟別指出(稲葉文書)に中沢村の住人の家一軒が記載されている。同一五年四月に作成され、同じく徳川氏奉行衆に提出された三輪郷社領指出(同文書)では、中沢八幡領は三〇〇文の地であった。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]入善町中沢
黒部川右岸の河岸段丘上にあり、東は島迷村、南は西中村、西の段丘下には下山村、北は下山新村(現朝日町)。「三州志」は建武二年(一三三五)中先代の乱に呼応して名越時兼が挙兵した折、中沢なる武士がこれに応じたと記す本があると記し、「中沢は新川郡にあり、按ずるに此の地に住せる士ならん」と記している。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]朝日町中沢
現朝日町の北東端に位置し、最上川左岸、南は本左中村、北は富沢村(現大江町)。正保郷帳に田方五一石余・畑方二〇石余とある。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。里分川行組に属し、宝暦八年(一七五八)の左沢御領知村高組訳書抜帳(松山町教育委員会蔵)には高七三石余、家数一八・人数一〇五とある。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]本川村長沢
大森川が本流吉野川に合流する付近に位置する。宝永三年(一七〇六)の「本川郷風土記」(南路志)などには「長沢村」と記される。同書によれば東西一里半南北三里で、「惣体土地黒、東南向南下之所也」とみえる。長宗我部地検帳には当地の記載はない。元禄地払帳によれば本田〇・五石で伊藤平内の給田、新田はない。
中沢村
なかざわむら
[現在地名]彦根市日夏町
泉村の南に位置し、朝鮮人街道が通る。慶長高辻帳に村名がみえ高二六五石余、うち一石二斗余は小物成。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で三ツ一分。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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