山本町
やまもとちよう
[現在地名]八幡市八幡山本
城ノ内町の南にあり、南北に通る大道の西片側四〇間半の町並。その対面の東片側は菖蒲池町の町並。両町の南端で東に転ずる大道は二八間で金剛寺(現廃寺)門前に至り、再び南行する。この間は山本町に属していたと考えられる小野上町(現八幡今田)の町並である。町名は男山東麓にあたることによる。
慶長五年指出帳(「石清水八幡宮史」所引)によれば、地子負担の町家は菖蒲池町と合わせて一四軒、石清水八幡宮社士・神人らの居住は記録がない。天保四年(一八三三)の新株冥加銀免除請書写(山田家蔵)には鍛冶屋を記す。
山本町から八幡宮表参道へ至る一三〇間の急坂(現廃道)を市殿坂(船橋坂・仕丁坂)といい、「榊葉集」は永仁三年(一二九五)四月二一日のこととして「山上按察法眼照真召仕小法師、桜井落入死了、仍自船橋坂取下、此井ニハ先年五十余年事歟ニモ小法師落入死去、是も船橋坂ヲ取下」と記し、事故死者を山上より下ろすことにも利用された。
山本町
やまもとちよう
面積:三三・二〇平方キロ
郡の南西部に位置する。町域は「く」の字形をしており、東は仲多度郡仲南町と財田町、南は阿讃山脈を隔て徳島県三好郡池田町、西は観音寺市、北は豊中町・高瀬町に接する。三方を山に囲まれ西方に平地が広がる。北東部は神田川が南西に流れ長瀬橋付近で、南は河内川が北流して河内川橋でそれぞれ財田川に合流して西流する。
山本町
やまもとちよう
[現在地名]江東区平野二丁目
仙台堀の枝川の西岸に沿った町屋。深川築地二四ヵ町の一。深川山本町とも称した。南は東平野町、北は入堀を挟んで雲光院、西は浄心寺・本多主膳正屋敷。文政町方書上によると、元禄一四年(一七〇一)九月西河岸町(現中央区)桜井屋治郎右衛門ほか二名が地所の買請けを願出て許され、地代金を上納し代官支配のもとで町場となっていった。
山本町
やまもとまち
面積:九八・三二平方キロ
山本郡の南部にあり、町の東部は山地で、琴丘町山地から発する三種川が蛇行しながら貫流し、豊かな森林地帯になっている。町の西部は三種川の南が角助堤などを水源とする田地で、北は金光寺野・志戸橋野と称する台地が広がり、能代市に接する。志戸橋野・金光寺野は、近年能代山本地区広域営農団地の計画に組み込まれ、素波里ダム(藤里町)からの引水によって開発が試みられている。
山本町
やまもとちよう
南北に通る御幸町通を挟む両側町。町の北は二条通(旧二条大路)、南は押小路通が通る。
平安京の条坊では、左京三条四坊四保一六町の東側の地。平安中期以降は二条東京極大路南西にあたる。明治三年(一八七〇)当町の南にあった「杵屋町」(押小路寺町西入)の北半を合併した。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「鶴屋町」とあり、筆描図系の図では寛文後期洛中洛外之絵図頃まで変化なく、元禄末期洛中絵図以降「山本町」となる。一方木版図系絵図では、寛永一八年以前平安城町並図は「かめや町」、寛永版平安城東西南北町並之図は「つるや町」、以降「京雀」「京雀跡追」頃まで変化はなく、元禄四年(一六九一)京大絵図で「山本町」となる。
山本町
やまもとちよう
上京区下長者町通智恵光院西入
東西に通る下長者町通を挟む両側町で、町の東は南北に通る智恵光院通、西は裏門通。平安京大内裏「梨本」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。
近世の聚楽第遺構では、南二之丸の西にあたる。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には町屋の形成だけで、町名は記されない。寛文五年(一六六五)刊「京雀」は「山もと町」と「西山もと町」の両町名を記し、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「知恵光院西入、山本町 浄福寺東入北側、西山本町 同町南側、南山本町」とみえ、三町に分れていた。
山本町
やまもとちよう
[現在地名]西区新町三―四丁目
立売堀南裏町の西に続く両側町で、西は上博労町。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数五八・役数六三半役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は餝屋市右衛門。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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