大森村(読み)おおもりむら

日本歴史地名大系 「大森村」の解説

大森村
おおもりむら

[現在地名]福島市大森

福島盆地の南縁に位置し、中央を大森川(旧荒川)が東流する。東は小島田こしまだ村、南は内町うちまち村、西は上鳥渡かみとりわた村。中世に大森城が築かれたじよう(一四三・六メートル)があり、東側を庭坂にわさか村を経て米沢に至る街道(通称羽州街道・米沢街道)が通り、街村を形成していた。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫大仏しのぶだいぶつ方のうちとして「太森」とみえ、段銭は四貫八二五文。同二二年の晴宗公采地下賜録に当地および周辺が出ないのは、伊達晴宗が弟の伊達実元に当地一帯を与え、独自の支配を行っていたためと考えられる。永禄年間(一五五八―七〇)のものと推定される一〇月一四日の亘理元宗書状(伊達家文書)に「大森在境中」とあり、当地は伊達氏の勢力の南境であったことが知られる。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四一六石余。侍屋敷として六三石の記載もあり、年貢対象地とされているが、これは蒲生氏郷の客将木村吉清が同二年に福島城に移り、侍屋敷が田畑となったことによると考えられる。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)では大森村四一六石余のほか、大森町屋敷三五石が記され、吉宮勘右衛門尉と門屋助右衛門尉が代官として支配していた。


大森村
おおもりむら

[現在地名]印西市大森・大森官堤おおもりかんてい浅間前せんげんまえ相島あいじま

竹袋たけふくろ村・別所べつしよ村の西、利根川右岸に位置し、東流してきた手賀てが川が当地で六軒ろつけん(六軒堀)弁天べんてん(弁天堀)に分れ、木下きおろし境で合流する。木下道の継立場であった。鎌倉末期と推定される金沢称名寺寺用配分置文(金沢文庫文書)に「埴生西大森郷」とみえ、大森殿分として称名寺に米七斗六升余・銭一貫三八六文を納入している。大森殿は在地の人物であろうが、北条氏一門金沢氏の一族とも考えられる。弘安二年(一二七九)三月大森の天台宗長楽ちようらく寺の僧房で「法華天台文文句輔正記」が書写されている(金沢文庫蔵同書奥書)。応安二年(一三六九)一一月六日、長楽寺に梵鐘(同寺蔵、県指定文化財)が寄進され、鐘銘に「埴生西大森郷」とある。

寛永八年(一六三一)知行宛行状に村名がみえ、高三九一石余が旗本八木領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一千六九石余、幕府領と旗本西山領。同一四年からの領主の変遷は竹袋村と同様。同年の本途米一三五石余・永三四貫三七六文で、元文四年(一七三九)には同二二三石余・三八貫二九二文となっている(宮島家文書)


大森村
おおもりむら

[現在地名]大田区大森本町おおもりほんちよう一―二丁目・大森東おおもりひがし一―五丁目・大森西おおもりにし一―七丁目・大森北おおもりきた三丁目・同五―六丁目・大森中おおもりなか一―三丁目・大森南おおもりみなみ一―五丁目・北糀谷きたこうじや一丁目

不入斗いりやまず村の南、うち川・のみ川河口に開けた海辺の村で、近世の東海道が南北に貫く。中世の六郷ろくごう保内大森郷の遺称地。

田園簿に村名がみえ、田方九〇五石余・畑方二五八石余、ほかに見取場として浜屋敷三反余、野銭場役石塩四六俵が記載され、すべて幕府領。村高一千一六四石余は荏原えばら郡七九ヵ村で最も高い。元禄八年(一六九五)の検地の際、あまりに村が広大なため東・西・北を冠する三村に分割されたが、そのとき民家の数をもって分けた。


大森村
おおもりむら

[現在地名]入間市宮寺みやでら

藤沢ふじさわ村の西、東流する不老としとらず川流域平坦地にある。北は宮寺新田。東寄りを江戸道、中央を古道の小谷田こやた道が縦断し、北部を新河岸道がほぼ東西に通る。村境は不明瞭で江戸時代初期には南の荻原おぎわら村に含まれていた。入間郡山口やまぐち領に属した(風土記稿)。元和二年(一六一六)三月一五日大森半七(好長)は宮寺村之内二〇〇石を宛行われた(記録御用所本古文書)。この二〇〇石の一部が当村分にあたると思われる。寛永二年(一六二五)には好長に宮寺郷内二〇〇石と開発地二〇石が宛行われている(「古文書集」内閣文庫蔵)。旗本大森氏は当村を本貫地のようにしており、村名も同氏に由来する。田園簿では宮寺町のうち大森領二二〇石に含まれ、元禄郷帳には宮寺を冠して大森新田村とあり高二三石。


大森村
おおもりむら

[現在地名]大森町大森

横手盆地の西部、出羽山地に発する大納だいな川・上溝うわみぞ川が雄物川本流に合する谷口にある。

村の北東に、一六世紀末小野寺康道が構えた大森城跡(現大森公園)がある。天正一八年(一五九〇)上杉景勝は、大森城に入って出羽検地の拠点とした(上杉景勝年譜)大杜おおもりとも表記する(秋田家文書)。村名の由来は「大山の森在り」とする説(六郡郡邑記)と、保呂羽ほろは山の神霊による御守おもり村から起こったとする説がある(「剣花山縁起」秋田県町村合併誌)。また、明治一四年(一八八一)の「秋田県市町村字名称調」には、「長暦二年開村古称御守村寛治年中改名」とある。


大森村
おおもりむら

[現在地名]河北町大森

南流する北上川と東流して追波おつぱ湾に注ぐ追波川の分岐点東側、上品じようぼん山の西麓の平坦地にある。柳津やないづ(現本吉郡津山町)方面への道が通る。天文五年(一五三六)六月二五日、伊達稙宗は江刺左衛門に大森・中島なかじまの反徒を早く鎮めるよう促している(「伊達稙宗書状」伊達家文書)。文禄五年(一五九六)一月の大森名寄帳(同文書)では、蔵入分として田二一町三反一畝一七歩、うち上田二町三反余・中田六町八反余・下田一二町一反余で、年貢二五貫七三八文、畠四町五反七畝二四歩、うち上畠五反余・中畠一町六反余・下畠二町四反余で、年貢一貫四五〇文。名請人は四一人で、うち名子一九人。寛永二一年(一六四四)の小梁川氏の知行目録(小梁川一良家文書)によれば、当地で一五貫一四九文を知行。


大森村
おおもりむら

[現在地名]可児市大森・大森台おおもりだいさくらおかさつきおか

二野にの村の南、北西へ流れる大森川流域にある。北端で大森川が久々利くくり川に合流する。民家は大森川の両側山麓に並ぶ。慶長六年(一六〇一)に大森村の八四八石余が木曾組衆頭に与えられた(「木曾衆知行目録写」徳川林政史研究所蔵)正保郷帳では田七二七石余・畑一二〇石余、草山・芝野がある。明暦覚書によれば概高一千二八七石余。「濃陽志略」では家数一五六・人数六二二。「濃州徇行記」では田四六町二反余・畑一一町二反余、見取田・畑各四反余。


大森村
おおもりむら

[現在地名]清水町大森・加茂内かもうち

丹生山地の東部に北東から南西に延びる細長い大森盆地の北側に位置し、北東は上天下かみてが村、北は本折もとおり村、西は滝波たきなみ村。村の西、滝波村境で東流してきた滝波川と南流してきた平尾ひらお川とが合して志津しづ川となり北流する。古くは志津庄に含まれる地で、天正一一年(一五八三)四月の越州七庄内宛羽柴秀吉禁制状(賀茂神社文書)に「大もり」がみえる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には高九五九・四石が記される。正保郷帳によれば田方七六二石余・畠方一九六石余。


大森村
おおもりむら

[現在地名]南郷村大森

八戸はちのへ城下(現八戸市)の南西の丘陵地に位置する。南は九戸くのへ軽米かるまい(現岩手県九戸郡軽米町)、西は泉清水いずみしみず村、北は市野沢いちのさわ村・中野なかの村に接する。

藩政当初は盛岡藩に属したが、寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入された。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に中野通なかのどおり村四ヵ村の一として村名がみえ、高二二八・六二四石、うち畑一八三・〇九二石とある。延享二年(一七四五)の戸口は六軒・二九人で、明治初年に当村の支村とされている鳩田はとだ村は二二軒・一一二人(「宗旨改組合書上申御帳」南郷村誌)


大森村
おおもりむら

[現在地名]大衡村大森

東は大松沢おおまつざわ(現大郷町)、南は松坂まつさか(現大和町)、西は奥田おくだ村、北は駒場こまば村。域内の沢水は鶴田つるた川に注ぐ。字打館うつだて中楯なかだて城跡は「古城書立之覚」では城主を児島安芸とし、天正年中(一五七三―九二)までの居住と記す。児島は児玉の誤記とみられる。駒場の駒場氏同様、武蔵七党児玉氏につながる者であろう。字猫の森ねこのもりにも児玉安芸・栄之丞の居住を伝える(大衡村誌)猫の森館跡がある。


大森村
おおもりむら

[現在地名]いわき市四倉町大森よつくらまちおおもり

原高野はらごや川流域にあり、東は細谷ほそや村、西は馬目まのめ村、北東は狐塚きつねづか村。貞和二年(一三四六)七月二二日の沙弥某・左衛門尉某連署奉書(飯野八幡宮文書)によれば「好島・白土・絹谷・大森・岩城・田富・比佐・富田等村々地頭・預所」が飯野いいの八幡宮の「放生会流鏑馬已下社役等」に難渋している。元久元年(一二〇四)九月一〇日の八幡宮領好島庄田地目録注進状写(同文書)に大森三郎の名がみえ、岩城氏の一族である。永徳四年(一三八四)八月日の好島東庄放生会祭礼役注文(同文書)によれば、「大森竈殿一間流鏑馬相撲一番」が課されている。


大森村
おおもりむら

[現在地名]山形市大森・千刈せんがり立谷川たちやがわ

中里なかざと村の北に位置し、立谷川南岸の大森山(三六五・六メートル)南西麓の緩丘平地に立地。南境を西流する高瀬たかせ川と北境を西流する立谷川との複合扇状地の扇頭部にあたる。縄文時代の大森遺跡、鎌倉・室町期の大森山経塚がある。元和九年(一六二三)の検地帳(山形県史)があるが、欠損部分があって一村分の数値は不明。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録では高五五五石余。「最上記」によれば寛文・延宝検地高六七三石余。天明七年(一七八七)の村明細帳(山形市史)によれば高七〇六石余、反別田一九町余・畑二八町二反余・新田一反余・新畑二町一反余。畑作物は紅花・大豆・たばこ・荏など。


大森村
おおもりむら

[現在地名]安八町大森

長良川右岸、森部もりべ輪中東部に位置し、南は南条みなみじよう村。応永二三年(一四一六)まで大森郷は山科家が知行していたが、文明一二年(一四八〇)には不知行となっており(「山科家礼記」同年一一月一五日条)、山科家は同年不知行の所領三八ヵ所とともにその回復を伝奏を通じて幕府に訴えている。「尾濃葉栗見聞集」によると、天正一二年(一五八四)頃の当村付近は加賀野井かがのい(現羽島市)城主加賀野井弥八郎の家老分速水久左衛門が有していたという。


大森村
おおもりむら

[現在地名]鳥取市有富ありどめ

有富川上流部に位置する。なか村の上流八町余で、東に向かう山道を大岩おおいわ越といい、横枕よこまくら村と猪子いのこ村の間に出る(因幡志)

天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳に「わうもり一ゑん」とみえ、当地にあたるとみられる。藩政期の拝領高は一五五石余,本免六ツ一分。藪役銀一匁五分・山役銀一〇匁五分が課されていた(藩史)。岩越氏・片山氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数二五。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男五四・女四一。嘉永二年(一八四九)の組合帳(同文書)では竈数一九。


大森村
おおもりむら

[現在地名]常陸太田市大森町

風神ふうじん山の南西麓にあり、北は瀬谷せや村。弘安大田文の佐都東郡に「大森七丁」とみえ、文禄四年(一五九五)七月一六日付の御蔵入目録(秋田県立図書館蔵)に「大森」、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大森村」とある。「新編常陸国誌」によると明和元年(一七六四)の戸数七六・人口三五一、文化二年(一八〇五)には五三戸。天保一三年(一八四二)の検地のとき手縄てづな村を編入し、田畠七七町余、分米七二七石余であった。


大森村
おおもりむら

[現在地名]中央区大森町・大巌寺町だいがんじちよう

赤井あかい村の北西方にある。成田に通じる道、千葉ちば寺に至る道を案内する明和六年(一七六九)の青面金剛像の道標がある。元禄郷帳に古くは森村と注記があるとおり、江戸初期までは森村と称した。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に平河中務殿分として森とみえ、田一町八反に分銭四五〇文が課せられていた。


大森村
おおもりむら

[現在地名]日南町矢戸やと

北東流する日野川右岸に位置し、対岸は矢戸村、東は村尾むろう村。拝領高は一〇五石余、本免は六ツ五分。寛永一〇年(一六三三)の田畑地詰帳写(日南町役場蔵)によると田方一〇四石余・七町五反余(上田二反余・中田二町一反余・下田二町四反余・下々田二町八反余)、畑方一〇石余・二町一反余(上畑三反余・中畑一反余・下畑一町一反余・下々畑五反余・屋敷一反余)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一四二石余、竈数二八。「伯耆志」では林三町余、家数二一・人数一四五、産物は苧。藪役一四匁が課されていた(日野郡史)。堰三・井手一二筋があった(嘉永六年「堰井手改」暦利家文書)


大森村
おおもりむら

[現在地名]蒲生町大森

下麻生しもあそう村の北西に位置し、村のほぼ中央を日野川が北西流する。集落は同川右岸にあり、日野町へ通じる道が通る。文安五年(一四四八)一二月一八日の田地売券(山部神社文書)に大森とある。永正一六年(一五一九)一一月一二日の売券(広田神社文書)には「大森惣けつ田」とみえる。戦国期大森氏が居住したという。天正一一年(一五八三)の大森惣中掟書(村井文書)には、当村とすず村の両在所が紛争を引起さないための五ヵ条の掟が記され、三ヵ年は相互に掟を遵守することを誓い合った。元和四年(一六一八)旗本関領となり、同領で幕末に至る。寛永石高帳では高三二六石余、慶安二年書上によると田二一七石余・畠屋敷一一石余、永荒川成九七石余。


大森村
おおもりむら

[現在地名]守山区大森・森孝新田もりたかしんでん

瀬戸街道が通り、南部を矢田やだ川が流れている。北部は標高の最高一〇〇メートルほどの丘陵地で、南部は三〇メートル程度の平地である。西を小幡おばた村に接する。小幡から印場いんば(現尾張旭市)にかけて、条里制の遺構が確認される。室町時代のものと考えられる法輪ほうりん寺蔵の大般若経経櫃の墨書銘に「尾張国山田庄内大森郷正宗庵」とあり大森郷の名がみえる。定光寺祠堂帳(定光寺蔵)の永享八年(一四三六)頃と考えられる条に「六俵 実参寿允山田荘大森」とあり、大森の地名がみえる。織田信雄分限帳によれば、今枝弥八が大森の地に六〇〇貫文を領していた。

寛文一一年(一六七一)の家数一二七、人数男四九三・女三八七(寛文覚書)


大森村
おおもりむら

[現在地名]伊自良村大森

藤倉ふじくら村の南に位置し、西を伊自良川が南流する。南端の恋洞こいぼら遺跡からは縄文時代から平安期にかけての遺物が多数出土する。もと伊自良村のうちで、元禄郷帳に高三八七石余、松平太右衛門領とある。近世初期は旗本近藤信濃守領で、元和四年(一六一八)幕府領となり、延宝八年(一六八〇)御望ごも(現岐阜市)の旗本松平隼人正忠冬領となったと思われる。小倉こぐらの熊野神社棟札には「元禄八乙亥天九月吉日遷宮師大森村三光院」とあり、神明神社の元禄九年(一六九六)の棟札にも「大工大森村 大村彦四郎」とある。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば、田一六町六反余・畑九町七反余、家数五一(うち社寺三・百姓四八)、人数二三九。


大森村
おおもりむら

[現在地名]五戸町切谷内きりやない 大森

五戸村の北東、五戸川の中流左岸の山麓に位置する。東は切谷内村、西は五戸村、南は兎内うさぎない村に接する。永仁五年(一二九七)の五戸郷検注注進状(新渡戸・岩大文書)に「一おほもり 六たん二かう」とある。戦国時代には三戸南部氏の支配下に入り、名久井なくい(現名川町)城主東政勝の所領であったが、元亀二年(一五七一)根城南部氏の所領に編入されたと伝える(「八戸家伝記」「南部八戸家系」南部家文書、「三翁昔語」)。往時は村域が広く、切谷内村も当村に含まれていたという(新撰陸奥国誌)

元和四年(一六一八)の知行目録に「弐拾九石九斗五升 大森」とあり、藩政当初は根城南部氏に給されていた。


大森村
おおもりむら

[現在地名]岩槻市大森

新方須賀にいがたすか村の南東に位置し、南西は元荒川を挟んで末田すえだ村、東は三之宮さんのみや(現越谷市)。集落は同川の自然堤防上に形成されている。江戸時代の領主の変遷は新方須賀村に同じ。田園簿に村名がみえ、高は田方八六石余・畑方二六石余。「寛文朱印留」には下総国葛飾郡所属として掲載されている。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)では家数一五(本百姓一三・水呑二)、岩槻藩の地方支配は新方にいがた筋に所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳によると高一五〇石余、ほかに新田高一七石余。


大森村
おおもりむら

[現在地名]弘前市大森

岩木山の北東山麓にあり、弘前城下から鰺ヶ沢あじがさわ(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に向かう鰺ヶ沢街道に沿う。東は貝沢かいざわ村、北西は十面沢とつらざわ村に続く。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡の新田に村名があり、村高二七・五二石。しかし寛文四年(一六六四)の高辻帳に村名はない。

承応二年(一六五三)三代藩主津軽信義は村内に屋形を建築している(津軽歴代記類、平山日記)。貞享二年(一六八五)には藩の御蔵が建設されている(永禄日記、平山日記、津軽歴代記類)。同四年の検地帳によれば、村高一五三・九八七石、うち田方は一〇三・一七六石、畑方五〇・八一一石。


大森村
おおもりむら

[現在地名]能代市大森

志戸橋野しとばしの(現山本郡山本町)に続く台地の東北端、東に母体もたい村、北に檜山ひやま町がある。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、「弐百廿五石三斗九升四合 大森村 志と橋村」とある。

元和四年(一六一八)に檜山給人河藤田作右衛門が「大森村之内」に新開差紙を得ている(「指紙写」袴田家文書)。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には新田として六八石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に支郷菅野沢すがのさわ村・コフクラ沢村の二村があげられる。


大森村
おおもりむら

[現在地名]浄法寺町大清水おおしみず

浄法寺村の南、安比あつぴ川の西岸にあり、西は太田おおた村、南は大清水村。正保国絵図に村名がみえ、高四五石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に蔵入高四五石余とあり、七ヵ年平均の免は一ツ四分一厘六毛。江戸期を通じて盛岡藩領であったが、元禄七年(一六九四)から宝永三年(一七〇六)まで、新田分九石余が五代藩主南部行信の弟旗本南部政信領となる(郷村古実見聞記)。元禄十郡郷帳による〆高は田方六八石余・畑方三二石余。


大森村
おおもりむら

[現在地名]立田村森川もりかわ 大森

東は佐屋さや川を隔てて西保にしほ(現佐屋町)、西は鵜戸うど川を境にして船頭平せんどひら村に接する。「徇行記」によれば、概高六三一石余は一円蔵入地で、田は二六町九反余、畑は六町九反二畝余。「寛文覚書」に戸数三九、人数二一三とある。「徇行記」は「此村ハ下古川村ニツヽキ農戸佐屋川堤傍ニアリ、此村モ卑湿ノ地ニテツフレ田畑多、残高ニ准シテハ佃力足リテ田圃不足セリ、小百姓ハカリニテ貧村ナリ」とし、支邑子消こきえの由来について「往昔僧空海此村ヲヨキリ、或家ニ休憩シケレハ、其家女懐妊セリ、主人其僧ヲ疑ヒ後、空海来レル時、其生子ヲミセカクト告ケリ、空海即其子ニ茶ヲ吹カケレハ忽然トシテ、其子消失セケルト也、因テ此所ヲ子消トナツクト也」と記す。


大森村
おおもりむら

[現在地名]本川村大森

吉野川の支流大森川沿いの山間村で、標高約八〇〇―九〇〇メートルに位置する。宝永三年(一七〇六)の「本川郷風土記」(南路志)によれば東西一里半南北一里で、「惣体土地黒、南東向東下之所也」とみえる。

慶長一六年(一六一一)の寺川村検地帳に村名がみえ、三筆記され、いずれも山畠で「ゐ」「居」とあるが、二筆に楮を少々栽培していることがみえる。元禄地払帳では本田〇・五石で伊藤平内の給田となっており、新田はない。「本川郷風土記」によれば戸数九、寛保郷帳では戸数九、人口八三、猟銃三。


大森村
おおもりむら

[現在地名]富津市大森

六野むつの村の北に位置し、みなと川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二七五石。寛文四年(一六六四)当時佐貫藩領であった(「松平忠勝領知目録」寛文朱印留)。支配領主の変遷は田原たばら村と同様。元禄郷帳では高二八一石余で、幕末も同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二九。


大森村
おおもりむら

[現在地名]竹野町大森

須野谷すのたに村の南西、竹野川上流域に位置する。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)に入封した小出吉政領となり、開幕後は出石藩小出氏領、元禄九年(一六九六)小出氏無嗣廃絶により収公されるが、翌年出石藩領に復帰、天保七年(一八三六)に至る。同年仙石騒動による出石藩半知により収公(「寛政重修諸家譜」「寛文朱印留」、宝永三年「仙石政明知行目録」仙石家文書、「御用部屋日記」など)。以後幕府領で幕末に至る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一〇一石余。


大森村
おおもりむら

[現在地名]勝浦市大森

上野名木うえのなぎ村の西に位置し、夷隅いすみ川に注ぐ大森川が流れる。元禄郷帳に村名がみえ、高一三六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一六一石余、家数七七、旗本堀・早川領。旧高旧領取調帳では両氏とも知行高八〇石余。熊野神社が鎮座。日蓮宗報国ほうこく寺がある。天保一〇年(一八三九)当村に生れた儒学者岡三慶は岡三甫の養嗣子となるが、のち帰村し儒学塾を開いている。


大森村
おおもりむら

[現在地名]栃木市大森町

吹上ふきあげ村の北西に位置し、北は仲方なかがた村。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳では田五〇石余・畑三五二石余・野銭八石余で旗本本多領。元禄郷帳では旗本有馬・土屋の相給で、以後変わらない。改革組合村では家数二三。文政七年(一八二四)日光街道新田しんでん宿(現小山市)の加助郷を命じられている(「証文」古川明文書)


大森村
おおもりむら

[現在地名]堺市大森・桃山台ももやまだい二―三丁・赤坂台あかさかだい一―六丁・新檜尾台しんひのおだい二―四丁

野々井ののい村の南に位置し、村内を和田わだ川が大きく湾曲しつつ北西流する。大鳥郡に属する。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では上神谷下条組四ヵ村として一括高付され一千五二一石余。慶安四年(一六五一)和泉国郷村高辻帳では一村で記載され高一二八石余。


大森村
おおもりむら

[現在地名]丸岡町大森

江添よづい村の南にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「高ほこノ郷」に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方四七五石余・畠方八三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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