20世紀日本人名事典 「志賀祐五郎」の解説 志賀 祐五郎シガ スケゴロウ 明治・大正期の新聞記者 生年文久3年10月4日(1863年) 没年大正8(1919)年2月7日 出生地出羽国秋田郡久保田(秋田県秋田市) 経歴出羽久保田(秋田)藩で評定奉行を務めた志賀為吉の四男に生まれる。父は平田篤胤の甥に当たる。号は遮莫、竜湖。東京の岡松甕谷に儒学を学び、また山田顕義に学んだ。司法官を務めた後、井上馨が朝鮮公使の時に「東京日日新聞」記者として特派され、通信文「韓山風雲録」が評判となる。明治30年「台湾日報」主筆となり、内藤湖南を台湾に迎える。その後、府知事渡辺洪基の秘書を務めた後、佃信夫と兄弟の義を結び、中国浪人として活躍。帰国して黒龍会に入り東亜問題に活動した。晩年は「二六新聞」に務めた。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「志賀祐五郎」の解説 志賀祐五郎 しが-すけごろう 1863-1919 明治-大正時代の新聞記者。文久3年10月4日生まれ。志賀為吉の4男。岡松甕谷(おうこく)に儒学をまなぶ。井上馨が朝鮮公使のときに「東京日日新聞」記者として特派され,通信文「韓山風雲録」が評判となる。明治30年「台湾日報」主筆となり,のち黒竜会にはいる。大正8年2月7日死去。57歳。出羽(でわ)久保田(秋田県)出身。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by