明治時代の軍人、藩閥政治家。天保(てんぽう)15年10月9日長州藩士山田顕行の長男として生まれ、吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学んだ。京都を中心に尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に挺身(ていしん)、蛤御門(はまぐりごもん)の変に敗れ、品川弥二郎(しながわやじろう)らと御楯隊(みたてたい)を結成、四国連合艦隊とも戦った。さらに元治(げんじ)の内戦、第二次征長軍との対戦でも活躍、戊辰戦争(ぼしんせんそう)に従軍して東北から箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)に転戦、功をたてた。1869年(明治2)兵部省に出仕し兵部大丞(ひょうぶたいじょう)、1871年陸軍少将となり、岩倉具視(いわくらともみ)遣外大使の理事官として随行、フランスはじめ各国の兵制を調査し、1873年に帰国して東京鎮台司令長官となった。翌1874年佐賀の乱征圧のため九州に出征、司法大輔(しほうたいふ)を兼任し、1877年の西南戦争には別働第二旅団長として出征した。1878年元老議官を兼ね陸軍中将に昇進、さらに翌1879年には参議兼工部卿(こうぶきょう)、のちに内務卿、司法卿を歴任した。1884年に伯爵を授けられ、1885年第一次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣に司法大臣として入閣、以後第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣まで4内閣に司法大臣として留任、条約改正の前提として法典編纂(ほうてんへんさん)の任にあたった。また1891年の大津事件では、担当大臣として大逆罪を適用するよう大審院の裁判に圧力をかけた。同年5月の無期徒刑の判決直後に病気を理由に辞任、翌1892年には枢密顧問官となったが、11月14日に病没した。なお1882年には皇典講究所設置に関与、日本法律学校(日本大学の前身)や国学院の創設にも関与した。
[宇野俊一]
『日本大学編・刊『山田顕義伝』(1963)』▽『高梨公之著『山田顕義伝――日本近代化にかけた五十年』(1994・パナ出版企画)』▽『佐藤三武朗著『日本巨人伝――山田顕義』(2011・講談社)』
(田浦雅徳)
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明治期の軍人,政治家。長州藩士。通称市之允,号は空斎,養浩斎など。松下村塾に学び,戊辰戦争では東北および箱館の征討に参加し,1869年(明治2)兵部大丞に任ぜられ,71年には少将となる。岩倉使節団に理事官として随行し,73年東京鎮台司令官兼清国特命全権公使を拝命。74年司法大輔として佐賀の乱の処理に当たり,西南戦争には征討第2旅団司令官となり,その功により陸軍中将に進級。79年参議兼工部卿,83年司法卿となる。この間,刑法草案審査委員として法典編纂に参画し,また国会開設の奏議をなす。85年第1次伊藤博文内閣の司法大臣となり,黒田清隆,第1次山県有朋,第1次松方正義の各内閣の司法大臣を歴任したが,91年4月病のため辞職した。1889年日本法律学校(現,日本大学)を皇典講究所内に創設。
執筆者:後藤 靖
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1844.10.9~92.11.11
明治期の政治家。陸軍中将。伯爵。萩藩士出身。松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び尊王攘夷運動に活躍。戊辰(ぼしん)・西南両戦争に従軍。この間,岩倉遣外使節団に参加して欧米視察。長州閥の有力者として1879年(明治12)参議兼工部卿,のち内務卿・司法卿を歴任。85~92年第1次伊藤内閣から第1次松方内閣まで司法大臣を務め,司法制度の整備や民法・商法などの編纂に貢献。皇典講究所・日本法律学校(現,日本大学)・国学院の設立にも尽力。
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…その目的は〈凡ソ学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ〉(初代総裁有栖川宮幟仁(たかひと)親王の告諭)ということから,国体を講明し,徳性を涵養し,皇典を講究して祭祀・旧儀古式を明らかにし,かつこれに必要な教育を施して国家有用の人物を養成することにあった。本所は,当初,神道界の人材育成を行ってきた神道事務局生徒寮の事業を継承したものであったが,1890年,初代所長山田顕義はその制度を一新して国学院を創設し,学問の領域と教育の規模を拡張した。草創期には矢野玄道,権田直助をはじめとする多くの国学者を擁し,《古事類苑》の編纂にも大きく寄与するところがあった。…
…新政府軍は,翌69年春,諸藩兵約7000人を青森に集結させ,反撃の準備を終えた。旧幕府軍の新政府軍艦隊に対する宮古湾の奇襲も失敗し,4月9日,山田顕義海軍参謀の率いる新政府軍が乙部に上陸し,新政府軍と旧幕府軍の戦闘は,松前,箱館などの要地で5月中旬まで続いた。5月18日,旧幕軍の榎本総裁らは降伏し,20日には,弁天砲台で最後まで抵抗した永井尚志も降伏して戦闘は終了した。…
…以上の民権派諸案は,同時に外交権,軍事権,行政権などを中心とする天皇大権を認めるものが多く,全体としては君民共治の理念を基礎としている。一方,欽定憲法と君権主義を基本とする保守的な案は,元田永孚,岩倉具視,井上毅,山田顕義などの官僚による諸案であるが,そのなかで井上,山田案のような個人的な私案では,天皇の章の前に国土,国民の章を置き,議会に内閣弾劾権,国政調査権を認めるなど,一般民間私案と共通する立場を残している。このように見てくると,岩倉憲法綱領を出発点とし,伊藤博文らの憲法調査を経て起草制定された大日本帝国憲法が,当時の一般世論の期待や予想からかなり隔絶した方向で進められたことが理解できる。…
…東京都千代田区九段南に本部を置く私立大学。1889年司法大臣の山田顕義が開設した日本法律学校を起源とする。吉田松陰に私淑した山田は,欧米流の法律学校が多数設立されるなかで,皇道精神に基づき,日本独自の法体系を研究し専門家を養成することを目的とし,大学を開設した。…
※「山田顕義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...
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