忠尋(読み)ちゅうじん

改訂新版 世界大百科事典 「忠尋」の意味・わかりやすい解説

忠尋 (ちゅうじん)
生没年:1065-1138(治暦1-保延4)

平安時代後期の天台宗の僧。東陽房と号する。佐渡国(新潟県)に生まれた。源忠季の子。比叡山登り覚尋について出家して西塔に住み,顕密を長豪,良祐に学んだ。1118年(元永1)権律師,24年(天治1)権少僧都,30年(大治5)権大僧都に任じられ,同年天台座主となっている。座主のとき6ヵ条起請を定めて修学と山内規律を守らせ,洛北鞍馬寺を東寺末から西塔末寺とし,洛東東山に十楽院を建立した。1132年(長承1)大衆の訴により権僧正に転じ,37年(保延3)大僧正となり,また1131年(天承1)以降最勝寺,尊勝寺の結縁灌頂大阿闍梨をしばしば務めている。顕密の学匠として知られ,恵心流の分派東陽房流の祖とされ,中古天台の書で後世忠尋の著作に仮託されたものも多い。
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朝日日本歴史人物事典 「忠尋」の解説

忠尋

没年:保延4.10.14(1138.11.18)
生年治暦1(1065)
平安後期の天台宗の僧。土佐守源忠季の子。承保年間(1074~77)初めに比叡山で出家,覚尋,長豪,良祐らに師事した。朝廷,院,貴族が行う法会の講師や導師を多く勤めるなかで栄進していく。大治5(1130)年に天台座主(第46世)となり,翌年2月に「延暦寺起請六箇条事」(『朝野群載』3所収)を山門衆徒に示し,内容もなく名誉を得ようとすることなどを戒める。保延3(1137)年に大僧正となる。忠尋選とされる書は多いが,『漢光類聚』をはじめ後人によって仮託されたものも少なくない。<参考文献>大久保良順「漢光類聚」(『日本思想大系』9巻「天台本覚論」解説)

(三橋正)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「忠尋」の解説

忠尋 ちゅうじん

1065-1138 平安時代後期の僧。
治暦(じりゃく)元年生まれ。比叡(ひえい)山の覚尋(かくじん)の弟子で,長豪,良祐にまなび天台恵心流の教学復興につとめる。大治(だいじ)5年天台座主(ざす)となる。大僧正。保延(ほうえん)4年10月14日死去。74歳。佐渡(新潟県)出身。俗姓は源(みなもと)。通称は大谷座主。号は東陽房。著作に「雑々集」「漢光類聚」など。

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