快元(読み)かいげん

精選版 日本国語大辞典 「快元」の意味・読み・例文・類語

かいげんクヮイゲン【快元】

  1. 室町中期の臨済宗の僧。鎌倉円覚寺の僧であったが、上杉憲実援助を受けて足利学校を再興し、第一世庠主(しょうしゅ)となる。応仁三年(一四六九)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「快元」の意味・わかりやすい解説

快元 (かいげん)
生没年:?-1469(文明1)

室町中期の臨済宗僧。もと鎌倉円覚寺の僧で,永享年中(1429-41)に上杉憲実に招請されて足利学校の初代庠主(しようしゆ)(校長)となる。このことによって名を知られるが,出自経歴等ほとんど不明である。同じく足利学校第9代庠主であった三要元佶(げんきつ)の《春秋経伝抄》によれば,儒学研究のために明に渡るべく筑前大宰府に赴いたが夢告によって中止したという。1469年4月21日示寂。
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朝日日本歴史人物事典 「快元」の解説

快元

没年:文明1.4.21?(1469.6.1)
生年:生年不詳
室町前期の学僧閲歴は不明な点が多い。はじめ鎌倉円覚寺で喜禅から易を学ぶ。上杉憲実に招かれ,久しく廃絶していた足利学校の初代庠主(校長)として永享11(1439)年ごろから復興に当たった。文安3(1446)年に学規3条を定め,また書籍を収集するなど学校の整備に努めた。易に通じ,しばしば周易を講じた。没年は「足利学校蔵書目録」住持世譜略による。『春秋』を学ぶため渡明を企てたが果たせなかったともいう。憲実が金沢文庫所蔵の宋版の四経注疏を足利学校に寄進したのは鎌倉に住んでいた快元の求めに従ったものだという説がある。<参考文献>川瀬一馬『足利学校の研究』

(山崎誠)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「快元」の解説

快元 かいげん

?-1469 室町時代の僧。
臨済(りんざい)宗。永享のころ上杉憲実(のりざね)にまねかれて下野(しもつけ)(栃木県)の足利学校の初代庠主(しょうしゅ)(校長)となる。文安3年(1446)学則をさだめ,また書物収集につとめるなど,さびれていた学校の整備につくした。応仁(おうにん)3年4月21日死去。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「快元」の解説

快元
かいげん

?~1469.4.21

室町中期の臨済宗の禅僧。足利学校の初代庠主(しょうしゅ)(校長)。鎌倉円覚寺で喜禅から易を学び,足利学校を興隆した上杉憲実から学校に招かれた。1439年(永享11)に学校に来ていたことは確実。「春秋」を学ぶため渡明をはかり九州に下ったが,目的を達せられなかったという。

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