下野(しもつけ)国足利荘(しょう)(栃木県足利市)に設けられた学校施設。その創設については、平安初期の小野篁(おののたかむら)の創立説、鎌倉初期に鑁阿寺(ばんなじ)を建立した足利義兼(よしかね)の創建説、あるいは室町初期に上杉憲実(のりざね)によって開かれたという説など、諸説あって定説をみないが、現存する資料からは、永享(えいきょう)(1429~1441)以前における明確な存在を知ることはむずかしい。漢学研修のための施設が、名実ともに学校としての形態を整えたのは、永享年間の初期、関東管領(かんれい)上杉憲実が易(えき)学の大家快元和尚(かいげんおしょう)を鎌倉円覚寺(えんがくじ)から招いて庠主(しょうしゅ)(校長)とし、1439年(永享11)には、当時の貴重書であった宋(そう)版の経典を学校に寄進したときであろう。のち、憲忠(のりただ)も父に倣い宋刊本の寄進を行い、ここに有名な足利の宋版『五経註疏(ごきょうちゅうしょ)』がそろった。すなわち『周易註疏(しゅうえきちゅうしょ)』『尚書正義(しょうしょせいぎ)』『毛詩註疏(もうしちゅうしょ)』『礼記正義(らいきせいぎ)』『春秋左伝註疏(しゅんじゅうさでんちゅうしょ)』である。近年、憲実寄進の宋版『唐書(とうじょ)』が発見、寄付されたが、これらはすべて「金沢文庫本」と推定され、いずれも国宝あるいは国の重要文化財として指定されている。
学校では易学を中心に漢籍類、兵法書などが講ぜられ、第7代庠主九華(きゅうか)(1500―1578)のときには、北条氏政(うじまさ)による金沢文庫本の宋版『文選(もんぜん)』(国宝)の寄進と援助により学校は最盛期を迎えた。その後、徳川氏の保護を得て継続されたが、1872年(明治5)校務を廃し、学校は蔵書とともに栃木県に引き継がれた。1876年足利町に返却、1903年(明治36)足利学校遺蹟(いせき)図書館が開かれ現在に至っている。国指定史跡。
[前田元重]
『川瀬一馬著『足利学校の研究』(1948・講談社)』▽『結城陸郎著『金沢文庫と足利学校』(1959・至文堂・日本歴史新書)』
室町初期に下野国足利庄に設立された漢学研修の施設。創建については諸説がある。中興した関東管領上杉憲実が永享年間(1429-41)に鎌倉から招いた快元を初代庠主(しようしゆ)(校長)とする。以下2世天矣,3世南計(南斗とも),4世九天,5世東井子好,6世文伯,7世玉崗瑞璵(号九華),8世古月宗銀,9世閑室元佶(号三要),10世竜派禅珠(号寒松)と続く。7世九華のときが学校の最盛期で小田原後北条氏の厚い保護を受けた。9世三要は後北条氏の滅亡後豊臣秀次に従って学校の典籍類とともに京に移った。秀次の自害後徳川家康の斡旋で典籍類は学校に返され,三要は家康の開いた伏見円光寺内の学校に校長としてとどまる。足利学校は寒松が跡をついだ。ほかに小早川隆景が備後三原の名島(なじま)に隠居後,学問所を建てて後進を指導したことが知られている。2校とも永く続かなかったが,その後の諸大名の儒学研究の気運を生み,薩摩の桂庵玄樹,土佐の南村梅軒(みなみむらばいけん)の学統とともに,やがて近世の儒学隆盛の源流となるものである。足利学校は禅宗寺院にならって禅僧が管理し,来学者も僧侶に限られ,在俗者も在校中は剃髪するしきたりであった。学風は周易,占筮(せんぜい)術の講義を中心に併せて儒学一般の教授がなされた。修学者は学校を出ると各地の武将のために占筮し,兵書を講じた。当時武将の戦闘は日時方角等の吉凶を占って行動するのを常としたから,学校はその軍事顧問を養成する機関として期待されたのである。その周易の訓点が菅家の講点,他の諸経は清家点を基にする古注中心であったが新注も採り入れる折衷学であった。公家の家学と異なる開放性を持ち,禅宗寺院の古典研究が四六文作成の手段であったのとも異なり,儒典研究を目的とする独自の学風を生んだ。1897年足利学校遺跡保存会が成立。1903年学校跡に足利学校遺跡図書館が開設された。《足利学校遺跡図書館古書分類目録》がある。
執筆者:今泉 淑夫
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室町時代,足利氏一門によって下野国足利(現,栃木県足利市)に設けられた学校施設。創設には諸説あり,いまだ定説をみない。室町中期に関東管領上杉憲実が学校を再興。宋版などの蔵書を寄進し,鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(校長)とした。火災などで一時衰退するが,明治初期まで存続する。上杉,北条,徳川諸氏の保護を得て僧侶,武士,医師らを対象に儒学のほか漢籍,兵法,医学などを教授した。最盛期には3000人にも及ぶ生徒が学んだといわれ,「坂東の大学」とも称される。上杉氏の古書寄進に加え,小田原の北条氏政は金沢文庫から『文選』を取り寄せ,徳川家康も安国寺恵瓊から没収した朝鮮本を分蔵するなど援助支援した。江戸時代には,庠主が将軍の来年の運勢を幕府に申上して,学校維持費とした。学校跡には,足利文庫(足利学校附属文庫)から引継ぐ足利学校遺跡図書館が残る。足利県の廃止によって,栃木県下に貴重な蔵書が一時死蔵されるが,足利町民らの切望によって県から返却され,有志らの募金も得た。国指定史跡。
著者: 谷本宗生
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
中世,下野国足利(現,栃木県足利市)に設けられた儒学・易学の学校。草創の時期や状況は不詳だが,室町中期の永享頃に,足利荘を管轄した関東管領上杉憲実(のりざね)が,鎌倉円覚寺の僧快元(かいげん)を足利に招いて学校を再建。第1世庠主(しょうしゅ)となった快元は易学に精通し,憲実は多くの漢籍を寄進して学校を保護した。憲実の子憲忠も「周易註疏(ちゅうそ)」を寄進し,孫憲房も「孔子家語句解」などを寄進した。上杉氏の保護をえて栄えたが,享禄年間に火災で多くの書籍を失い衰微した。1560年(永禄3)庠主九華(きゅうか)は,小田原の北条氏康父子と対面してその信頼をえ,後北条氏の後援のもと再建をはたし,生徒の数3000人と記される最盛期を迎えた。徳川家康が江戸に入ると,庠主三要(さんよう)(閑室元佶(げんきつ))は家康に近侍してその保護をえ,衰微することなく存続した。国史跡。
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…室町中期の臨済宗僧。もと鎌倉円覚寺の僧で,永享年中(1429‐41)に上杉憲実に招請されて足利学校の初代庠主(しようしゆ)(校長)となる。このことによって名を知られるが,出自,経歴等ほとんど不明である。…
…しかし,統一学校運動が推進され,また政府も改革案作成に努力したにもかかわらず,イギリス,フランスなどではエリート養成のための伝統的中等学校,さらには初等学校さえ,第2次大戦後まで温存され続けたのである。
【日本の学校】
[近世以前の学校]
日本で初めて〈学校〉の名を冠した教育機関は,栃木の足利学校だが,その起源は中世とされているものの明確ではない。15世紀,永享年間(1429‐41)に校規が整備されて学校として再興され,16世紀にはF.ザビエルやL.フロイスら宣教師により総合大学としてヨーロッパにも紹介されるほど盛んとなった。…
…やがてわれわれはより便利な漢和字書《和名類聚抄(わみようるいじゆしよう)》をもつが,これも一種の類書であった。
[中世,近世]
下っては,金沢(かねさわ)文庫と足利学校が日本図書館史上重要である。金沢文庫は13世紀後半,金沢実時によって創設された文庫で,とりわけ3代貞顕の集書努力により大いに充実した。…
…わずかに平安時代末期から京都冷泉(れいぜい)家に伝わった1200件余,約1万点にのぼる古文書類が伝存され,冷泉家時雨亭文庫として公開されている。鎌倉時代に入ると文庫を持つことができるのは武士階級となり,とくに北条実時から3代を費やして収集された金沢文庫,足利氏の創建した足利学校の文庫などが著名である。室町時代には,明との交易により多数の漢籍が輸入され,とくに東福寺の普門院書庫,同じく海蔵院文庫などが充実していた。…
※「足利学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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