悲田院跡(読み)ひでんいんあと

日本歴史地名大系 「悲田院跡」の解説

悲田院跡
ひでんいんあと

古代の貧窮者・孤児の救済施設で東西二院があったが、中世には寺院化した。西悲田院の系譜を引くほうは安居院あぐい悲田院・上悲田院ともよばれたが、正保二年(一六四五)泉涌せんにゆう(現京都市東山区)に移った。→悲田院

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔古代の悲田院〕

「延喜式」左右京職に「凡京中路辺病者孤子、仰九箇条令、其所見所遇随便、必令送施薬院及東西悲田院」とある。東悲田院は「続日本後紀」承和一二年(八四五)一一月一四日条に「鴨河悲田」とみえ、九条南の東端近くかも川付近にあったと思われ、一一世紀初めには三条京極きようごくに、一六世紀初頭には下京五条に移転したと考えられる。西悲田院は貞観一三年(八七一)閏八月二八日の太政官符(類聚三代格)に「北限京南大路西末并悲田院南沼」とみえ、九条南の西端にあったが、これも廃絶したあと鎌倉時代には再建され、安居院悲田院・上悲田院とよばれ、一四世紀に現京都市上京区おうぎ町の地に再建されたと考えられる。

承和九年一〇月一四日、飢饉で多数の死者が出たため、左右京職と東西悲田院とに料物を給し、島田・鴨河原などの髑髏五千五〇〇余頭を焼却させている(続日本後紀)。同一〇年三月二五日には東西悲田院の病人や貧窮者に義倉物が与えられている(同書)。寛平八年(八九六)閏一月一七日には左右看督、近衛らが月に三回施薬院と東西悲田院の病人や孤児を巡検し、大蔵・宮内両省の綿および古弊の幄と畳を頒給しており(「太政官符」類聚三代格)、延長八年(九三〇)二月一四日には検非違使・左右京職をして、疫病により路頭に迷う病人を施薬院や悲田院などに収容させ、米・塩・古弊幔・古帖筵などを支給している(扶桑略記)。また「今昔物語集」巻一三の「理満持経者顕経験語」に「今ハ昔、理満ト云フ法花ノ持者有ケリ、(中略)或ル時ニハ、京ニ有テ、悲田ニ行テ、万ノ病ニ煩ヒ悩ム人ヲ哀テ、願フ物ヲ求メ尋テ与フ。如此クシテ所々ニ行クト云ヘドモ、法花経ヲ読誦スル事、更ニ不怠ズ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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