扇町
おうぎまち
[現在地名]宇都宮市仲町・栄町・宮町・塙田三丁目
南は寺町に接する東西の町人町。東は鉤の手に折れて清巌寺町、西は小田町に続く。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)にみえる。扇子職人が住んでいたことによる町名という(宇都宮史)。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は三番組一一八間のうち四四間を受持ち、城内草刈人足は二〇人を差出す(同書)。享保四年(一七一九)の宇都宮大明神祭礼図(高橋節子蔵)によれば、二七番山車で、軍配ウチワ屋体を出す。元文年間(一七三六―四一)の町方書上帳(高橋節子文書)によれば、名主は二人で、町の長さ東西二町三尺、道幅三間一尺、町家は南側に二七軒、北側に二九軒で、本家三〇軒半・小割家五四軒、町高は田方一四石余・畑方一四石余、ほかに新畑高一斗余がある。
扇町
おうぎちよう
[現在地名]江東区木場三―四丁目
仙台堀の南岸に位置する町屋。深川築地二四ヵ町の一。深川扇町とも称した。四方を貯木場の掘割に囲まれ、西は長門山口藩抱町並屋敷、南は木場町、東は茂森町、北は吉永町。周辺は材木問屋・材木置場となっている。文政町方書上によれば、元禄一四年(一七〇一)九月宇野屋孫八郎・三川屋権兵衛・市川屋藤兵衛の三名が買請けて町屋となった。同一六年扇町となり正徳三年(一七一三)町奉行支配となる。
扇町
おうぎちよう
町の南を上御霊前通が、西を堀川通が通る。中昔京師地図や中古京師内外地図には、当町辺りに「悲田院」「後花園院陵」と「天神社」が描かれている。
承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図には「扇のづし」とみえ、寛永以後万治以前京都全図では「扇町」とあり、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成では「西陣扇丁」となる。
扇町
おうぎまち
城域と町家を画して南北に走る堀端の西、飯田の段丘上最南端を東西に走る竪町。知久町の南に位置する。
町の成立の時期は不明であるが、貞享元年(一六八四)東愛宕坂口の西側を残して除地となった。
扇町
おうぎまち
[現在地名]佐賀市嘉瀬町大字扇町
長崎街道は、八戸宿の西の端、高橋を渡って左折し、南下して現国道三四号に沿って右折して西へ進む。この街道沿いが扇町である。扇町は郷村支配の町で(八戸村に属す)、街道沿いに商品を売ったり、職人が住んでいたが、身分はあくまでも百姓であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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