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江戸幕府第13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下(せんげ)。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘(あべまさひろ)らに政務を一任した。1857年(安政4)10月、米国総領事ハリスを江戸城中に引見したことは、のちにハリスの『日本滞在記』で広く紹介された。実子がなかったために、後継者をめぐって将軍継嗣(けいし)問題が起こり、また日米の通商条約も勅許を得られず、政局が激動した。1858年4月、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任すると、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を継嗣と定め、ついで6月、通商条約調印を強行し、7月、政局紛糾のなかに病死した。法号温恭院。
[井上勝生]
(井上勲)
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江戸幕府13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の嗣子。幼名政之助。家祥と称する。1853年(嘉永6)7月に宗家を相続,11月に将軍となり家定と改名した。アメリカ,ロシアなどとの和親条約締結後,57年(安政4)に通商を要求するアメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見した。家定は病弱で子がなく,将軍継嗣問題が起き,一橋派と南紀派が対立した。58年井伊直弼の大老就任後,家定は紀州藩主慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を継嗣とし,同年没した。
執筆者:森田 武
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1824.4.8~58.7.6
江戸幕府13代将軍(在職1853.11.23~58.8.8)。父は12代家慶(いえよし)。母は側室本寿院。幼名政之助。はじめ家祥(いえさき)。法号温恭院。1825年(文政8)世子。41年(天保12)西丸入り。鷹司政通の養女有姫,ついで一条実良の女寿明(すめ)姫を妻に迎えたが,ともに早世。53年(嘉永6)将軍職を継いで家定と改めた。同年6月3日にペリーが浦賀に来航し,世情が動揺した時期であった。老中阿部正弘は,雄藩大名との協調路線から鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)の養女篤姫(あつひめ)を近衛忠熙(ただひろ)の養女として家定の御台所に迎えた。家定は病弱で,世子の誕生が期待できなかったため,将軍継嗣が重大な政治問題となり,58年(安政5)大老井伊直弼(なおすけ)が和歌山藩主慶福(よしとみ)(家茂)を継嗣と決定,直後に没した。
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…江戸幕府の末期,13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる紛争。12代家慶(いえよし)がペリー初度来航の1853年(嘉永6)に死ぬと,次の家定は病弱で非常時の将軍にふさわしくないうえに子供がないため,継嗣問題が切実になった。…
※「徳川家定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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