徳川家定(読み)とくがわいえさだ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川家定
とくがわいえさだ

[生]文政7(1824).4.8. 江戸
[没]安政5(1858).7.6. 江戸
江戸幕府 13代将軍 (在職 1853~58) 。家慶の4男。母は跡部氏。幼名は政之助,初めは家祥 (いえよし) といった。院号は温恭院。嘉永6 (53) 年 10月 23日将軍宣下。当時はペリー来航後の騒然たる情勢であったが,生来虚弱であったため,阿部正弘老中とし,水戸の徳川斉昭を顧問格として外交問題を処理しようとした。しかし安政4 (57) 年阿部正弘の死後は,朝廷や西南雄藩との協調が破れ,また嗣子のなかったことから将軍継嗣問題が起り,一橋派と紀伊派が対立,井伊直弼の独裁を許し内政,外交ともに混乱した。

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百科事典マイペディアの解説

徳川家定【とくがわいえさだ】

江戸幕府13代将軍(在位1853年―1858年)。12代家慶(いえよし)の子。幼名政之助。初名家祥。諡号(しごう)温恭院。将軍就任後すぐに日米和親条約締結。病弱なため老中阿部正弘が補佐。嗣子がなく,将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題で紛糾するなか没した。
→関連項目将軍継嗣問題

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川家定 とくがわ-いえさだ

1824-1858 江戸幕府13代将軍。在職1853-58。
文政7年4月8日生まれ。徳川家慶(いえよし)の4男。母はお美津の方(本寿院)。嘉永(かえい)6年将軍となるが,病弱のため,老中阿部正弘(まさひろ)が政務を補佐。安政4年アメリカ総領事ハリスを江戸城内で引見。子がなく将軍継嗣問題がおき,紀伊(きい)和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を跡継ぎと決定した。安政5年7月6日死去(発喪は8月8日)。35歳。幼名は政之助。初名は家祥(いえさき)。法号は温恭院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川家定

没年:安政5.7.6(1858.8.14)
生年:文政7.4.8(1824.5.6)
徳川13代将軍。12代将軍家慶の子,母は跡部氏美津。天保8(1837)年世子に定められ,同12年西ノ丸に移る。嘉永6(1853)年6月家慶が死去,同年11月将軍宣下を受けた。性来病弱,癇癖が強く人前に出ることを嫌ったといわれ,また子を得なかった。安政4(1857)年10月アメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見,この前後より将軍の継嗣選定が問題となり始める。一方の候補は徳川宗家と血脈の近い紀州藩主徳川慶福(家茂),他方は徳川(一橋)慶喜で尾張藩主徳川慶恕,越前藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬がこれを支持し一橋派を構成した。翌年,老中堀田正睦が条約勅許を得ることに失敗したのちの4月,井伊直弼を大老に任じて幕政指導を委ねた。5月1日,大老・老中を招集し,慶福を継嗣とする意向を伝え,6月25日公表。次いで7月5日,慶福の安全を図るため一橋派の大名を処分,翌日没した。<参考文献>『続徳川実紀

(井上勲)

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわいえさだ【徳川家定】

1824‐58(文政7‐安政5)
江戸幕府13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の嗣子。幼名政之助。家祥と称する。1853年(嘉永6)7月に宗家を相続,11月に将軍となり家定と改名した。アメリカ,ロシアなどとの和親条約締結後,57年(安政4)に通商を要求するアメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見した。家定は病弱で子がなく,将軍継嗣問題が起き,一橋派と南紀派が対立した。58年井伊直弼の大老就任後,家定は紀州藩主慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を継嗣とし,同年没した。

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大辞林 第三版の解説

とくがわいえさだ【徳川家定】

1824~1858) 江戸幕府第一三代将軍(1853~1858)。家慶の四男。幼名政之助。ペリー来航による日米和親条約の締結を行う。子がなかったため、将軍継嗣問題を起こして幕末政争の因を作った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川家定
とくがわいえさだ
(1824―1858)

江戸幕府第13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下(せんげ)。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘(あべまさひろ)らに政務を一任した。1857年(安政4)10月、米国総領事ハリスを江戸城中に引見したことは、のちにハリスの『日本滞在記』で広く紹介された。実子がなかったために、後継者をめぐって将軍継嗣(けいし)問題が起こり、また日米の通商条約も勅許を得られず、政局が激動した。1858年4月、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任すると、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を継嗣と定め、ついで6月、通商条約調印を強行し、7月、政局紛糾のなかに病死した。法号温恭院。[井上勝生]

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367日誕生日大事典の解説

徳川家定 (とくがわいえさだ)

生年月日:1824年4月8日
江戸時代末期の江戸幕府第13代の将軍
1858年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

精選版 日本国語大辞典の解説

とくがわ‐いえさだ【徳川家定】

江戸幕府第一三代将軍。家慶の四男。幼名政之助ついで家祥。嘉永六年(一八五三)将軍となる。生来虚弱で内外の政務は、阿部正弘・井伊直弼らに一任、子がなかったため将軍継嗣問題が起こり、政局混乱を招いた。文政七~安政五年(一八二四‐五八

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世界大百科事典内の徳川家定の言及

【将軍継嗣問題】より

…江戸幕府の末期,13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる紛争。12代家慶(いえよし)がペリー初度来航の1853年(嘉永6)に死ぬと,次の家定は病弱で非常時の将軍にふさわしくないうえに子供がないため,継嗣問題が切実になった。…

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