徳川家茂(読み)トクガワイエモチ

デジタル大辞泉 「徳川家茂」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえもち〔トクがはいへもち〕【徳川家茂】

[1846~1866]江戸幕府第14代将軍。在職1859~1866。紀州藩主徳川斉順の長男。幼名、慶福よしとみ将軍継嗣問題井伊直弼いいなおすけに推されて将軍となり、井伊の死後、皇女和宮かずのみやと結婚して公武合体を進めたが、第二次長州征伐の際、大坂城で病死。

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精選版 日本国語大辞典 「徳川家茂」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえもち【徳川家茂】

  1. 江戸幕府第一四代将軍。紀州藩主斉順(なりより)の長男。家斉の孫。幼名菊千代、のち慶福(よしとみ)。継嗣をめぐって一橋派の推す一橋慶喜対立したが、井伊直弼の擁立によって安政五年(一八五八)将軍となる。孝明天皇の妹和宮の降嫁で公武合体をはかったが、再度の長州征討の際大坂城で病死。弘化三~慶応二年(一八四六‐六六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川家茂」の意味・わかりやすい解説

徳川家茂
とくがわいえもち
(1846―1866)

江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順(なりゆき)(将軍家斉の子)の長子。弘化(こうか)3年閏(うるう)5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福(よしとみ)と称す。12代藩主斉彊(なりかつ)(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派の推す一橋慶喜(よしのぶ)に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、1858年(安政5)慶福を推す南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したのち、継嗣と定まり、同年徳川家定(いえさだ)の死去により将軍職を継ぎ、家茂と改めた。

 桜田門外の変による井伊大老横死ののち、老中久世広周(くぜひろちか)、安藤信正(あんどうのぶまさ)らの画策により、1862年(文久2)孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を夫人に迎え、公武合体による幕府権力の回復を計ったが、同年の島津久光(しまづひさみつ)の率兵(そっぺい)上京、久光と勅使大原重徳(おおはらしげとみ)の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職に、松平慶永(まつだいらよしなが)を政事総裁職に迎えた。翌1863年、慣例を破り、自ら上洛(じょうらく)、幕権回復を計ったが、朝廷は尊王攘夷(じょうい)派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社(かもしゃ)行幸に供奉(ぐぶ)させられた。しかし4月の石清水社(いわしみずしゃ)行幸には随行を固辞して東帰した。その後、八月十八日の政変によって公武合体派が勢力を回復し、1864年(元治1)再度上洛した。ついで、長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次の長州征伐となり、1865年(慶応1)三たびの上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入った。翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに、7月20日、21歳で城中に病死した。法号昭徳院。

[井上勝生]


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百科事典マイペディア 「徳川家茂」の意味・わかりやすい解説

徳川家茂【とくがわいえもち】

江戸幕府14代将軍(在位1858年―1866年)。和歌山藩主徳川斉順(なりより)の子。幼名菊千代。諡号(しごう)昭徳院。1849年和歌山藩主となり,慶福(よしとみ)と称する。将軍家定の継嗣問題で一橋慶喜(よしのぶ)(徳川慶喜)とともに候補となり,井伊直弼らの擁立で1858年将軍となって家茂と改名。のちに皇女和宮(かずのみや)と結婚,朝廷の干渉で慶喜が将軍後見職につく。公武合体を推進すべく奔走するが,第2次長州征伐のため自ら大坂城に赴き城内で病死。
→関連項目公武合体三条実美文久の改革

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川家茂」の意味・わかりやすい解説

徳川家茂
とくがわいえもち

[生]弘化3(1846).閏5.24. 紀伊
[没]慶応2(1866).7.20. 大坂
江戸幕府 14代将軍 (在職 1858~66) 。和歌山藩主徳川斉順 (将軍家斉の6男) の長男。母は松平六郎右衛門の娘。幼名は菊千代,のち慶福 (よしとみ) 。院号は昭徳院。嘉永2 (49) 年閏4月斉彊 (なりかつ) の養子となって紀州家を継いだ。しかし,嗣子のなかった将軍家定の跡をめぐって一橋慶喜を推す一橋派と対立 (→将軍継嗣問題 ) 。大老井伊直弼の支持を得た慶福は安政5 (58) 年 10月 25日将軍となり,名を家茂と改めた。万延1 (60) 年井伊直弼が桜田門外で殺害されると,幕府は公武合体の政策をとって文久2 (62) 年2月 11日孝明天皇の妹和宮 (かずのみや) 親子内親王を江戸城に迎え家茂夫人とした (→和宮降嫁問題 ) 。同年6月勅使大原重徳が勅旨をもたらしてからは,慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政治総裁職に任じて幕政の改革を行なった。また同年 10月三条実美,姉小路公知が東下した際には攘夷の勅旨がもたらされた。翌年3月上京し,天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に従い,攘夷の期日を5月 10日と奉答し,6月東帰した。元治1 (64) 年7月蛤御門の変 (→禁門の変 ) が起ると薩摩と共同して長州藩兵を退け,続いて長州征伐を命令。第2回の征長役には大坂に本営をおき,みずからも大坂へおもむいて諸軍を統轄したが,敗戦が続き失意のうちに大坂城で病死した。

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改訂新版 世界大百科事典 「徳川家茂」の意味・わかりやすい解説

徳川家茂 (とくがわいえもち)
生没年:1846-66(弘化3-慶応2)

江戸幕府14代将軍。紀州藩主徳川斉順の長子。1849年(嘉永2)紀州藩主,58年(安政5)13代将軍家定の継嗣となり,同年の家定死去により将軍位を継いだ。藩主時代の名は慶福(よしとみ),将軍になって家茂と改める。最初の後見職は田安慶頼。大老井伊直弼は家茂と慶頼を上に戴いて安政の大獄を強行した。井伊暗殺翌々年の62年(文久2),公武合体の一方策として皇女和宮と結婚,その年田安慶頼を罷免したが,勅使の干渉により将軍継嗣問題でのライバルだった一橋慶喜を2人目の後見職に任命せざるをえなかった。翌63年に上京して攘夷実行を約束させられただけでなく,京都で人質状態に陥り,老中格小笠原長行の率兵上京でやっと救出された。翌64年(元治1)2度目の上京,65年(慶応1)長州親征を呼号して3度目の上京を遂げ,そのまま大坂城に滞在したが,条約勅許,兵庫開港問題で辞表を書くという騒ぎもあった。66年大坂城の家茂は幕府軍を長州へ攻めこませようとしたが敗退し,収拾がつかない状況下に病没する。
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朝日日本歴史人物事典 「徳川家茂」の解説

徳川家茂

没年:慶応2.7.20(1866.8.29)
生年:弘化3.閏5.24(1846.7.17)
徳川14代将軍。紀州(和歌山)藩主徳川斉順の長子。母は松平氏みさ。初名慶福,将軍継嗣となり家茂と改む。父の没後の誕生であった。嘉永2(1849)年紀州藩主。徳川将軍家との血脈の近さから徳川慶喜を抑えて将軍継嗣に選ばれ,安政5(1858)年10月将軍就任,時に13歳,大老井伊直弼に幕政を委ねた。桜田門外の変後は老中の安藤信正・久世広周にこれを委ね,文久2(1862)年2月,皇妹和宮との婚儀の礼をあげる。勅使大原重徳の要請を受け徳川慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職に任命。次いで三条実美・姉小路公知の正副勅使にこたえて攘夷を確約,翌3年将軍として229年ぶりの上洛を果たした。翌元治1(1864)年1月再上洛,公武合体を図り大坂湾の防備を巡察。「君上英敏」とは随従した勝海舟の評。幕臣からの忠誠を得ることでは慶喜を超えていた。翌慶応1(1865)年5月,長州処分のため大坂城に入る。10月,外交交渉に不備があったとして朝廷は老中阿部正外,松前崇広を官位剥奪・国許謹慎に処した。これを朝廷による人事干渉とみて幕臣が反発したのを受け,将軍職辞表を提出するが却下された。翌年第2次長州征討が始まって程なく,病を得,大坂城中に没した。年21歳。8月20日発喪,これを理由に休戦の朝命が出た。遺骸は海路江戸に送られ増上寺に葬られた。なお増上寺の徳川家墓地は,昭和33(1958)年から同60年にかけて発掘調査が行われた。<参考文献>『続徳川実紀』

(井上勲)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川家茂」の解説

徳川家茂
とくがわいえもち

1846.閏5.24~66.7.20

江戸幕府14代将軍(在職1858.12.1~66.8.20)。父は和歌山藩主の斉順(なりゆき)。母は側室実成院。幼名菊千代。法号昭徳院。斉順の遺領を相続した斉彊(なりかつ)の養子となり,1849年(嘉永2)4歳で藩主。元服して慶福(よしとみ)。時の13代将軍家定は病弱で,世子誕生の期待が薄かったため将軍継嗣問題が発生し,慶福を推す門閥譜代の南紀派(なんきは)と,一橋慶喜(よしのぶ)を擁する一橋派の対立が激化。58年(安政5)4月,南紀派の井伊直弼(なおすけ)が大老に就任,6月慶福が継嗣と決定。7月家定が没し,同年末将軍職を継ぐ。公武合体のため孝明天皇の異母妹和宮(かずのみや)と婚姻。63年(文久3)・64年(元治元)の2度上洛し,公武の融和に尽力。66年(慶応2)第2次長州戦争では進発し,大坂城に入ったが幕府軍の敗報の中で病死。8月20日発喪。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川家茂」の解説

徳川家茂 とくがわ-いえもち

1846-1866 江戸幕府14代将軍。在職1859*-66。
弘化(こうか)3年閏(うるう)5月24日生まれ。徳川斉順(なりゆき)の長男。母はおみさの方(実成院)。嘉永(かえい)2年紀伊(きい)和歌山藩主徳川家13代。安政5年井伊直弼(なおすけ)らに推されて将軍となる。文久2年和宮(かずのみや)と結婚,公武合体の推進につとめる。第2次幕長戦争のさなか慶応2年7月20日大坂城で病没(発喪は8月20日)。21歳。幼名は菊千代。初名は慶福(よしとみ)。法号は昭徳院。

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旺文社日本史事典 三訂版 「徳川家茂」の解説

徳川家茂
とくがわいえもち

1846〜66
江戸幕府14代将軍(在職1858〜66)
将軍になる前は慶福 (よしとみ) と称した。元紀伊(和歌山県)藩主。1858年大老井伊直弼 (なおすけ) らに推され,将軍家定の継嗣となった。開港直後の多難な時代に直面し,公武合体の実現ため'62年皇妹和宮 (かずのみや) と結婚,幕政を改革した(文久の改革)。翌年攘夷決行を迫られ,やむなく諸藩に命じた。第2次長州征討中,大坂城で病死した。

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防府市歴史用語集 「徳川家茂」の解説

徳川家茂

紀伊藩[きいはん]の藩主で、13歳で江戸幕府の第十四代将軍となり、孝明天皇[こうめいてんのう]の妹和宮[かずのみや]と結婚しました。第二次長州征伐[だいにじちょうしゅうせいばつ](四境戦争[しきょうせんそう])の最中に大坂城で病死しました。

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367日誕生日大事典 「徳川家茂」の解説

徳川家茂 (とくがわいえもち)

生年月日:1846年5月24日
江戸時代末期の江戸幕府第14代の将軍
1866年没

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世界大百科事典(旧版)内の徳川家茂の言及

【徳川慶喜】より

…江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。…

※「徳川家茂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」