戸谷村(読み)とだにむら

日本歴史地名大系 「戸谷村」の解説

戸谷村
とだにむら

[現在地名]豊平町戸谷

都志見つしみ村の西に西宗にしむね川を隔てて位置し、集落手毛首てけく(九一八・九メートル)石仏いしぼとけ(五〇二・六メートル)山麓に挟まれた西宗川の台地上に開ける。北は溝口みぞぐち(現芸北町)北東中原なかばら村、南は長笹ながささ村、西は戸河内とごうち(現戸河内町)に接する。「国郡志下調書出帳」によれば、村名はもと「十谷」と記し、長笹村を含めて谷が一〇あることによるという。天文一九年(一五五〇)九月七日付の毛利元就同隆元連署証状(吉川家文書)によると、吉川元春に戸谷ほか二村の知行地が与えられている。

慶長六年(一六〇一)の検地により高九九六・〇一石に決定し、その後変更はない。


戸谷村
とだにむら

[現在地名]宮川村戸谷

宮川左岸にあり、南は打保うつぼ村、西へ戸谷川をさかのぼると万波まんなみ峠に通ずる。戸谷川流域からは砥石が産出され、「斐太後風土記」に「谷川にあらと多かり、故砥谷とだにと云となり」とある。元亀―天正(一五七〇―九二)頃に北飛騨に勢力をもっていた塩屋秋貞終焉の地といわれ、近年戦死の地の碑が建てられた。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では小鷹利こたかり郷に属し高一六石余とある。元禄検地帳(宮川村文書)では高一五石余、田三反余・畑三町四反余。名請人・屋敷持は寺ともで一三人。「飛騨国中案内」では免二割九分五厘、家数一四(うち寺一・百姓一三)。安永三年(一七七四)の新田検地帳(宮川村文書)では高四石余。


戸谷村
とだにむら

[現在地名]夢前町莇野あぞの

野畑のばたけ村の北、菅生すごう川上流域に位置する。北は河内こうち村。正保郷帳では莇野村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に独立して村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ莇野村」と注記され、高一五四石余。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高二一五石余、反別は田方六町余・畑方一〇町九反余、免一ツ三分、家数三三・人数二〇三。寛政六年(一七九四)の姫路藩財務覚書(熊谷家文書)には三三石余が大豆納とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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