戸賀崎熊太郎(読み)とがさきくまたろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「戸賀崎熊太郎」の意味・わかりやすい解説

戸賀崎熊太郎
とがさきくまたろう
(1744―1809)

幕末剣術三大流派の一つ、神道無念(しんとうむねん)流草創期の功労者。武蔵(むさし)国南埼玉郡清久(きよく)村の富農の生まれ。名は暉芳(てるよし)、知道軒(ちどうけん)と号した。1759年(宝暦9)16歳、江戸四谷(よつや)の福井兵右衛門嘉平(よしひら)の門に入り、神道無念流皆伝を得て帰郷、教場を開いた。78年(安永7)江戸麹町(こうじまち)裏に道場を開き、83年(天明3)神楽坂(かぐらざか)で門人大崎富吉(おおさきとみきち)の仇討(あだうち)を成就(じょうじゅ)させて評判をとり、道場を駿河台(するがだい)に移すほどであった。95年(寛政7)道場を高弟の岡田十松吉利(じゅうまつよしとし)に託して帰郷、66歳で没した。3代熊太郎芳栄(よしひで)(喜道軒)は、1841年(天保12)江戸牛込(うしごめ)に道場を開き、のち本郷に移転したが、この間、水戸藩の藤田東湖(とうこ)らと親交をもち、烈公(徳川斉昭(なりあき))の殊遇を受けて弘道館(こうどうかん)の剣術師範となり、同藩の尊王攘夷(じょうい)論を支持した。

[渡邉一郎]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「戸賀崎熊太郎」の解説

戸賀崎熊太郎(初代) とがさき-くまたろう

1744-1809 江戸時代中期-後期の剣術家。
延享元年生まれ。江戸で福井嘉平(よしひら)にまなぶ。神道無念流の皆伝を得,郷里武蔵(むさし)埼玉郡上清久(かみきよく)村に道場をひらく。のち江戸麹町(こうじまち)に道場をかまえ,使用人富吉に稽古(けいこ)をつけて親の仇(あだ)討ちをさせ評判となった。文化6年5月11日死去。66歳。名は暉芳(てるよし)。号は知道軒。

戸賀崎熊太郎(3代) とがさき-くまたろう

1807-1865 江戸時代後期の剣術家。
文化4年2月15日生まれ。初代の孫。天保(てんぽう)12年江戸牛込に神道無念流の道場をひらく。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)にまねかれ藩の剣術師範となる。門人に藤田東湖ら尊攘(そんじょう)派がおおかった。慶応元年5月29日死去。59歳。武蔵(むさし)埼玉郡上清久(かみきよく)村出身。名は芳栄(よししげ)。号は喜道軒。

戸賀崎熊太郎(4代) とがさき-くまたろう

1839-1907 幕末-明治時代の剣術家。
天保(てんぽう)10年2月10日生まれ。戸賀崎熊太郎(3代)の長男。江戸で父に神道無念流をまなび,常陸(ひたち)水戸藩につかえる。明治11年郷里の埼玉県上清久(かみきよく)村(久喜市)にかえり,子弟の指導にあたる。実戦的剣術の衰退をなげき,明治40年4月3日割腹自殺した。69歳。名は芳武。号は尚道軒。

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367日誕生日大事典 「戸賀崎熊太郎」の解説

戸賀崎熊太郎(3代目) (とがさきくまたろう)

生年月日:1807年2月15日
江戸時代末期の剣術師
1865年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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