扇田村(読み)おうぎだむら

日本歴史地名大系 「扇田村」の解説

扇田村
おうぎだむら

[現在地名]比内町扇田

大館盆地南東端部、西北に流れる米代川・さい川両河川に挟まれた所に位置する。地名の由来は、扇形の田があり、それから開けたことによるという(郷村史略)

天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「御小姓 扇田村住 佐藤与三郎」とみえる。天正一九年(一五九一)の村高は山館やまだて村と合わせ一九一・四石(「出羽国秋田郡知行目録写」秋田家文書)。浅利氏の本城長岡ながおか城跡がある。慶長二年(一五九七)の浅利頼平領内村数覚書(秋田家文書)に「あふき田村 田畠一切なし 町はかり家六十」とあり、原初的城下町を兼ねた商人の出入りする町であったと思われる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四三〇石、寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳には当高五四〇石余とあり、幕末の「郷村史略」には高六〇五石、家三五九戸、人一千五八〇口とある。


扇田村
おうぎだむら

[現在地名]能代市扇田

東に鶴形つるがた村、南に檜山町があり、北は米代川。檜山川に沿って発達し、檜山城の入口を扼する位置にある。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「千百五拾三石八斗四升四合 もたい村 おかま村扇田村」とある。おかま村は文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)大釜谷地おおかまやち村とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には扇田村の支郷として小釜谷地村とある。


扇田村
おうぎたむら

[現在地名]五戸町扇田

五戸村の南、浅水あさみず川の中流に位置する。東は野沢のさわ村、西は石沢いしざわ(現倉石村)、南は八戸藩領斗賀とが村・剣吉けんよし(現名川町)に接する。

天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、高一九一・三九二石とある。七ヵ年平均の免は二ツ二分八厘四毛。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では蔵分二六一・三石余、給分一七二・八石余、うち支村野沢のさわ一二三・四石余。家数は八七、うち支村野沢二七、寺沢てらさわ二、岩脇いわわき一で、馬一四八疋を飼養。


扇田村
おうぎだむら

[現在地名]湯川田川たがわ

湯川に近く阿賀川との間に南北に細長く位置する。南から上扇田・中扇田・下扇田の三集落よりなる。地名はこの地を開墾したとき扇のように末が広く発展する願いをこめて名付けられた。享和二年(一八〇二)扇田新村が開かれ、文化二年(一八〇五)下垂川しもたるかわ村の所属となる(会津年表)。享和三年の反別は六四町、文化五年に新田集落が成立し、翌六年には新田検地を実施している(「扇田記」鈴木家文書)。文化八年の河沼郡扇田分百姓持高帳(福島県史)には農民の田高畑高が本免別免別に記載され、合計六七〇石余。化政期には下垂川村の小名の項に五区に分けて記され、家数は扇田(中扇田)一二、上扇田九、下扇田七、東扇田(米丸新村)三、西扇田(館の前分)二とあり、「享和二年より、漸々に民居を構へ、文化二年より扇田と称し、本村に属す」と記される(新編会津風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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