檜山城(読み)ひやまじょう

日本の城がわかる事典 「檜山城」の解説

ひやまじょう【檜山城】

秋田県能代市の南東部、檜山川(能代川の支流)の流域の霧山(標高147m)にあった室町時代から江戸時代初めにかけての山城(やまじろ)。安東(安藤)氏、次いで佐竹氏が所有した。同城とともに、付近の大館跡(おおだてあと)、茶臼館跡(ちゃうすだてあと)、国清寺跡(こくせいじあと)が「檜山安東氏城館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと)」として国指定史跡になっている。檜山城は檜山安東氏第2代の安東康季(やすすえ)が1432年(永享4)に築城したとも、安東政季(まさすえ)が1456年(康正2)に築城を開始したともいわれ、霧山一帯を城域として馬蹄形をしており、東西1500m、南北900m(面積約133万m2)に及ぶ規模を誇り、政季から実季(さねすえ)までの5代にわたって檜山安東氏の本城となった。実季の父愛季(ちかすえ)は檜山安東氏に加え、南の雄物川河口の湊城(旧城)を拠点にしていた湊安東氏の当主となって両家の合体を果たしたが、愛季の死後、実季の代の1598年(慶長3)に湊安東家の再独立を画策する動きが周辺大名の南部氏、小野寺氏、戸沢氏を巻き込んだ内紛(湊合戦)へと発展した。この戦いで実季は檜山城で大規模な籠城戦を行ったが、その後攻勢に出て秋田領を統一して湊城(新城)に居城を移すことになった。その後、安東氏は秋田氏に姓を改めたが、1602年(慶長7)に常陸国宍戸に転封となり、檜山城は代わりに秋田に国替えになった佐竹氏の城となった。佐竹氏は城代として小場義成を、次いで多賀谷氏を1万石で檜山城に配した。多賀谷氏は大規模な城の改修を行ったが、その後間もなく幕府が布告した一国一城令により1620年(元和6)に廃城となった。多賀谷氏は廃城後に茶臼山に居館を築いて、その周囲に家臣を配した。その場所は「多賀谷居館跡」と呼ばれている。檜山城跡には現在、本丸のあった場所を中心に大小約20本の堀切が残っている。また、大館跡は檜山城北西方、茶臼館跡は西方にある同城の支城とされている遺構である。茶臼館跡には、堀切や腰曲輪(こしぐるわ)が残っており、この館には大浦氏(津軽氏)により津軽を追われた北畠氏が住んだという伝承もある。国清寺跡は1504年(文亀4)ごろに安東忠季によって建てられたとされている安東氏の菩提寺跡で、常陸転封とともに廃寺となり、かつて境内にあったとされる銀杏の木が水田の中に立っている。多賀谷居館跡では1990年代半ばに能代市教育委員会が行った発掘調査で表門跡、裏門、囲裏門、土塁、井戸跡、溝跡、土坑などが確認されている。JR奥羽本線東能代駅からバス約10分。◇霧山城、堀ノ内城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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