打吹城跡(読み)うつぶきじようあと

日本歴史地名大系 「打吹城跡」の解説

打吹城跡
うつぶきじようあと

[現在地名]倉吉市仲ノ町など

打吹山の山頂部を中心として築かれた山城。西から北にかけて小鴨おがも川、東に竹田たけだ(天神川)を眼下に望む。宇津吹城・宇津葺城とも記す。倉吉城ともいわれるが(伯耆民談記・池田家履歴略記)、これは近世に入っての呼称とされる。

〔南北朝・室町期〕

南北朝期中頃から戦国期にかけての伯耆守護山名氏の居城で、守護所であったともいう。建武四年(一三三七)には山名時氏が伯耆守護となっており、小鴨川北岸の田内たうち城を居城とした。「伯耆民談記」によると、時氏の嫡子左衛門佐師義が当城を築いて居城としたという。築城年代は延文年間(一三五六―六一)と伝える。現在国府こうに伯耆国庁跡があるが、田内・打吹両城ともにこれに近接しており、守護が拠点を置くにふさわしい立地条件を備えていたと考えられる。応安四年(一三七一)の時氏の死去に伴って師義は伯耆守護職を継承し、時義―氏之へと相伝された。その後、守護職は同族の山名満幸の手に移るが、明徳の乱で満幸が敗れ、明徳三年(一三九二)に氏之に還補された。「伯耆民談記」は乱後の状況を、伯耆国は「右馬頭氏之に賜り、元の如く倉吉に在城して一国を管領せり」と記す。守護山名氏は岩倉いわくら城の小鴨氏羽衣石うえし(現東郷町)の南条氏などの有力国人を被官化することで領国支配の確立を図ったが、彼らの自立的な勢力を完全に掌握することはできなかった。応仁の乱で山名氏一門は室町幕府内での勢力を衰微させるが、伯耆では文明一二年(一四八〇)から翌年にかけて守護山名政之と一族の元之が守護職を争うという同族内の内訌が起こり、法勝寺ほつしようじ(現西伯町)などで合戦があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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