押越村(読み)おしこしむら

日本歴史地名大系 「押越村」の解説

押越村
おしこしむら

[現在地名]養老町押越

高田たかだ(島田村内)の南、金草かなくさ川の上流域に立地する。「山科家礼記」延徳四年(一四九二)二月一〇日条に「多藝長夫替昨夕上候、ヲシコシノ者也」とある。慶長郷帳に村名がみえ、高七二八石余。慶長一四年(一六〇九)検地帳が残り、水帳六冊・屋敷帳一冊からなる(渋谷文書)。それによると検地は八月一七日から二二日までの六日間で行われ、田畑六八町八反余、屋敷一町二反余となっている。徳永昌重(高須藩)領。元和二年(一六一六)の村高領知改帳、正保郷帳でも同藩領で、同郷帳によれば田六一七石余・畑一一一石余、山年貢二石余。

押越村
おしこしむら

[現在地名]昭和町押越

甲府盆地の中央部、釜無川左岸に位置する。東は紙漉阿原かみすきあわら村、西は河東中島かとうなかじま村、南はくち(現玉穂町)、北は西条さいじよう村。村内をひがし川が南東に流れ、東川分流いま川が南流する。村の北部に釜無川の流路跡や土手跡が残る(甲斐国志)。中世の押越郷の遺称地。また甲斐の曲淵氏は当地曲淵まがりぶちの出身といわれ、「一蓮寺過去帳」では明応四年(一四九五)七月一日逆修(供養)の妙欽禅尼に曲淵母儀と注記される。武田氏三代に仕え、滅亡後は徳川氏に属して幕臣となった武川衆の勝左衛門吉景、その子筑前守吉清・彦助正吉らも曲淵を称している。

押越村
おしこしむら

[現在地名]野々市町押越一―二丁目

手取川扇状地北東部に位置し、北西野代のしろ村。富樫とがし用水の分流十人じゆうにん川が、集落の西を北流する。正保郷帳に村名がみえ高二一五石余、田方一一町八反余・畑方二町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二二一石、免五ツ一歩(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報