福井庄(読み)ふくいのしよう

日本歴史地名大系 「福井庄」の解説

福井庄
ふくいのしよう

揖保川の左岸、現姫路市南西部の勝原区かつはらく大津区おおつく網干区あぼしく太子たいし糸井いといを含む一帯に比定され、ほぼ中央部を大津茂おおつも川が南流する。一二世紀末以降は山城神護じんご寺領の庄園で、鎌倉時代には東保・西保に分れ、それぞれに地頭が置かれた。庄域は北は太田おおだ(現太子町)弘山ひろやま庄と接し(永徳二年八月六日「弘山庄実検絵図写」円尾文書)、西は余部あまるべ郷に(建治元年「福井庄東保米算用状」輯古帖など)、北西は石見いわみ(現太子町)に接し(文禄四年五月吉日「揖保川井堰絵図」岩見井組文書)、南は播磨灘に臨む。

〔領主の変遷〕

「台記別記」仁平三年(一一五三)八月八日条によると、藤原頼長(藤原氏の長者)の奈良春日社詣に際し福井御庄は屯倉三具を割当てられている。この福井庄を摂津国に比定する説もあるが、当時頼長は播磨国大江島おおえしま庄を管領していたので、隣接する当庄も頼長の所領であった可能性も考えられる。治承四年(一一八〇)一二月平重衡が南都に発向した際、重衡の「火をいだせ」との命に応じたのは福井庄下司次郎大夫友方であったといい(「平家物語」巻五)、当庄は当時平家領であった可能性が高い。なお友方は延慶本では俊方となっている。その後は後白河院領となったが、院は紀州高野山の鑁阿の祈祷に対し、寿永二年(一一八三)一〇月二二日、空海自筆の金泥両界曼陀羅に付して「播磨国管揖東郡内福井庄」を高野山大塔に寄進した(「官宣旨案」高野山文書など)。寛元四年(一二四六)五月日の金剛峯寺調度文書目録(同文書)に「福井庄文書三一通、又六通」とみえ、高野山領であった。しかし神護寺を再興した文覚の要望によって、後白河院は元暦元年(一一八四)八月に前述の曼陀羅を最初に所有していた神護寺に移し、翌年付属の福井庄も同寺に寄進した(同二年正月一九日「僧文覚起請文」神護寺文書)

〔神護寺による支配の推移〕

後白河院は本所職を留め、神護寺は領家職を有したと思われるが、まもなく後白河院領太田庄の領家で院の寵臣橘定康が同庄内のはら(現太子町の福井大池)を干して田四、五町を作ったため、同池から取水していた福井庄内の田一七〇町余が旱損したとして文覚が訴えている(六月一八日「文覚書状案」神護寺文書など)。文治四年(一一八八)七月二四日には神護寺領七ヵ庄とともに役夫工を免除された(「後白河上皇院宣」同文書)。後白河院が神護寺に行幸した際、供の北面武士の饗応料が当庄預所に賦課されている(「後白河上皇神護寺御幸記」同文書)


福井庄
ふくいのしよう

近世の福井村一帯を庄域とした摂関家・近衛家領。「台記別記」仁平三年(一一五三)八月八日条の春日詣雑事を諸庄に割当てた記事によると、同月二一日の屯食一五具のうち「福井御庄三具」が予定されている。また一二世紀中葉に成立したとみられる「執政所抄」には一二月二八日の護摩に際し「浄衣絹一疋二丈 福井」とみえ、平安末期には摂関家領であった。伝領関係については建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に「庄務本所進退所々」として「冷泉宮領内福井庄寛愉」とあり、目録末尾の「庄々相承次第」に冷泉宮―京極北政所―知足院殿(藤原忠実)と記す。


福井庄
ふくいのしよう

現阿南市の南部、福井町から椿つばき町にかけての地域にあった庄園。現福井町椿地大谷つばじおおたに弥勒庵の寿永四年(一一八五)正月二八日の線刻弥勒菩薩坐像銘に「阿波国海部郡福井里大谷」とあり、当地域は海部かいふ郡に属していた。福井庄の庄名は鎌倉期からみられる。嘉元三年(一三〇五)七月二六日の亀山上皇処分状案(亀山院御凶事記)に福井庄とみえ、他の四庄と合せ亀山上皇から孫の後二条天皇に譲られている。大覚寺統に伝領された皇室領の庄園であった。同四年六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)にも室町院領の一つとして「阿波福井庄 前院宮」があげられ、永嘉門院の注記がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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