放出村(読み)はなてんむら

日本歴史地名大系 「放出村」の解説

放出村
はなてんむら

[現在地名]鶴見区放出東はなてんひがし一―三丁目・今津北いまづきた一丁目・今津南いまづみなみ一丁目・鶴見一丁目、城東区放出西はなてんにし一―三丁目

東成ひがしなり郡東端に位置し、徳庵とくあん川南岸にある。同川北岸の徳庵堤を古堤ふるづつみ街道が通り、集落は摂河国境つるぎ堤沿いにある。宝永元年(一七〇四)の大和川付替え以前は村域の南から西境を大和川が流れていた。地名の由来については、仁徳天皇の頃、大和川がよく氾濫したので当地に樋を掘り、水を放出したことによるとする説、「日本書紀」天智天皇七年(六六八)条にみえる草薙剣を盗んで新羅に逃亡しようとした道行は、当地に漂着したとし、道行が剣を河中に放り出したことによるとする説、当地は河畔牧で、牛馬を放ったことに由来するとの説などがある。村名の読みは応永三三年(一四二六)一二月日付不断光院領田数注文(九条家文書)に「はなちて」とみえ、近世の地誌類や郷村帳類は「はなちで」「はなちでん」「はなつて」などと記す。

保元二年(一一五七)四月日付関白家政所下文案(勧修寺家本永昌記裏文書)ならびにそれに添付された榎並庄相承次第によれば、榎並えなみ上下庄のうち上庄の預所職は、前遠江守藤原基俊の次女の夫清章に伝えられていたが、同年関白藤原忠通は上庄を東方西方に分け、清章の譲状に任せてその嫡女に西方の、次女に東方の庄務権を認めているが、「此外以放出村、清章譲与他人了」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報