日本大百科全書(ニッポニカ) 「敦煌文書」の意味・わかりやすい解説
敦煌文書
とんこうもんじょ
敦煌千仏洞(莫高窟(ばっこうくつ))の第17窟(くつ)に封蔵されていた数万点の古文献。19世紀末に道士の王円籙(えんろく)により発見され、1907年オーレル・スタイン、翌年ポール・ペリオが相次いで王道士から大量に買収し、イギリス、フランスに持ち出され、広く世界に知られた。残部は北京(ぺキン)図書館に収蔵されたが、一部民間に流れたものや、大谷探検隊の橘瑞超(たちばなずいちょう)により日本へ、またオルデンブルグによりロシアへもたらされたものもある。4~11世紀初めにわたる写本を主体とし、数十点の印刷物を含む。全体の8、9割は漢文で、チベット文が次に多く、ほかは数百点の古代トルコ文、ホータン文、ソグド文、サンスクリットなどである。内容は大部分仏教文献で、とくにおびただしい供養経が大宗を占めるとはいえ、古逸典籍も多く含まれ、儒教、道教のテキストや四部(書籍の四分類、経・史・子・集)にわたる貴重書も少なくない。中国や中央アジアでは古代の写本が伝存されたものはほとんどなく、このように大量の集積が突然出現したことは驚異的大事件であり、その研究は「敦煌学」とよばれ、学界の関心を集めてきた。
敦煌文書は本来貴重資料を保存したものではなく、寺院の経蔵や文書庫から不要となって退蔵されたもので、ほとんど断片であるが、伝来文献ではうかがわれぬ古代庶民の日常生活の諸相を生き生きと伝えるものが多い。寺院や公私の文書、契約、会計録のほか社の文書、通俗文学の語り物、変文など、社会経済史・文化史の第一等資料の宝庫といってよい。
[池田 温]
『神田喜一郎著『敦煌学五十年』(1960・筑摩書房)』