改訂新版 世界大百科事典 「敦煌学」の意味・わかりやすい解説
敦煌学 (とんこうがく)
Dūn huáng xué
中国,敦煌莫高窟(千仏洞)から発見された古文献を研究する学問。千仏洞の壁画,彫塑の研究を含めることもある。1900年(光緒26),道士王円籙が第17窟に封蔵されていたおびただしい古写本,古文書,絵画類を発見した。当初はほとんど関心を呼ばなかったが,07年にイギリス探検隊のスタイン,08年にフランスのペリオが,それぞれ大量に買い取って本国へ持ち帰ったことから,世界の学界の注目を集めるようになった。10年に清国政府は残余の漢文文献を北京に運ばせたが,その後に訪れた大谷探検隊,ロシアのオルデンブルグ,第3次探検のスタインは,さらに若干点を取得した。かくて敦煌文献は,世界各地に分散して収蔵されることになり,現在,おもな所蔵機関は大英図書館,フランス国立図書館,北京図書館,サンクト・ペテルブルグの東洋学研究所である。その大部分は漢文とチベット語のものであるが,ソグド語,ウイグル語,トカラ語など中央アジア諸語の文献も混じっている。漢文文献についていえば,5~11世紀初めの間に書写されたもので,仏典写本が8割以上を占める。
敦煌文献の紹介と研究は,1908年ペリオが収集写本のめぼしいものの目録と実物数点とを携えて北京に赴き,学者たちに展示したことに始まる。羅振玉らはさっそく《莫高窟石室秘録》《敦煌石室遺書》(ともに1909)などを出版して,これらを紹介し,その後もペリオから送られて来た写真を影印して,《鳴沙石室佚書》(1913)《鳴沙石室古籍叢残》(1917)などをやつぎばやに公刊した。これら書名にみられるように,当時の学者たちの関心の的は古佚書の写本に置かれていた。仏典はおもに日本の学者が研究したが,やはり《大蔵経》に収めない蔵外仏典を探し出すことに重点が置かれ,矢吹慶輝《三階教之研究》(1925),同《鳴沙余韻》(1930)などの大著が世に出された。30年代になると,ようやく古文書も研究されるようになり,ことに那波利貞の寺院文書を用いた諸論文,仁井田陞《唐宋法律文書の研究》(1937)などは,これまで典籍資料のみに頼っていた中国史研究に大きく貢献した。しかし第2次大戦の勃発にともない,敦煌研究は中断を余儀なくされた。戦後に再開された敦煌学の特徴は,各所蔵文献の目録が編纂されることにより,敦煌文献の全容がようやく明らかになったこと,スタイン収集文献をはじめ,北京本,ペリオ本等のマイクロフィルム化がすすんで,写真によって形式や筆跡などを調査する古文書学的な研究が可能になったことである。その結果,佚書を探し出すことよりも,写本や文書を通覧して,その書写の背景,敦煌の社会,歴史との関連を重視する研究が現れるようになった。一方,千仏洞自体については,44年に敦煌芸術研究所が現地に設立され,51年にこれが敦煌文物研究所に改組されて現在にいたり,石窟の保護と調査研究,壁画の模写作業が継続して行われてきた。同研究所から《敦煌彩塑》《敦煌壁画》等が出版された。
執筆者:竺沙 雅章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報