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文彦博 ぶんげんはくWen Yan-bo; Wên Yen-po

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

文彦博
ぶんげんはく
Wen Yan-bo; Wên Yen-po

[生]景徳3(1006)
[没]紹聖4(1097).洛陽
中国,北宋の宰相。介休 (山西省介休県) の人。字は寛夫。諡は忠烈。進士及第後,翼城知県を振出しに累進して慶暦7 (1047) 年枢密副使参知政事,翌年宰相。難問といわれていた冗兵の整理を断行したが,御史唐介に弾劾されて一時中央の職を離れ,至和2 (55) 年富弼 (ふひつ) とともに再び宰相となった。嘉祐3 (58) 年辞任,潞国公に封じられた。英宗即位に尽力した功により治平2 (65) 年枢密使となり,以後9年間在職。市易法を論難して王安石に追われ,旧法党の時代に平章軍国重事になったが,新法党の時代はふるわず,元祐5 (90) 年退官。

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世界大百科事典 第2版の解説

ぶんげんはく【文彦博 Wén Yàn bó】

1006‐97
中国,北宋の政治家。字は寛夫。汾州介休(山西省)の人。進士に及第して官仕し,副宰相のとき貝州(河北省)王則の乱を鎮定し,宰相にのぼった。仁宗から哲宗まで4朝に仕え,50年間,政界の元老として重きをなし,その名声は周辺諸国にまで聞こえた。ただ神宗朝には王安石の新法に反対して地方まわりとなり,晩年は洛陽に退居し,白楽天の九老会にならって洛陽耆英(きえい)会をつくった。【竺沙 雅章】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

文彦博
ぶんげんはく
(1006―1097)

中国、北宋(ほくそう)の政治家。汾州介休(ふんしゅうかいきゅう)(山西省介休県)の出身。文(ぶんろこう)ともいわれる。韓(かんき)、范仲淹(はんちゅうえん)、欧陽修(おうようしゅう)、富弼(ふひつ)らとともに仁宗(在位1022~63)期の名臣とされる。西夏(せいか)対策で功をあげたほか、大問題であった兵員過剰の整理に成功し、1055年には富弼とともに宰相として政治にあたった。弾劾にあって地方官に転任することもあったが、第5代皇帝英宗の擁立に功があり権勢を振るった。王安石を推薦したのは文彦博であったが、第6代皇帝神宗のときに王安石が登用されると、新法に反対して不遇であった。86年、旧法の復活時には返り咲き、元老として重きをなしたが、90年に退官した。没後も元祐(げんゆう)党籍碑に名を刻されるなど、政局の推移によって評価が変わったりするが、仁宗、英宗、神宗、哲宗の4代に仕えた名臣として名高い。『文公文集』40巻がある。[伊原 弘]

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世界大百科事典内の文彦博の言及

【居士仏教】より

…とりわけ征服王朝下に呻吟する知識人には,一種のレジスタンス運動として仏教研究や信仰に沈潜する者も多くみられた。宋代すでに廬山の慧遠を慕い念仏結社の浄土会を組織した宰相文彦博はじめ杭州蓮社の王衷,秀州白蓮社の張掄などのほか,張商英に代表される仏教学者が輩出し,この傾向は明・清時代へと拍車がかかった。【藤善 真澄】。…

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