欧陽修(読み)おうようしゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「欧陽修」の意味・わかりやすい解説

欧陽修
おうようしゅう
(1007―1072)

中国、宋(そう)代の文学者。名の修は脩とも書く。字(あざな)は永叔(えいしゅく)。号は酔翁(すいおう)、六一居士(りくいつこじ)。廬陵(ろりょう)(江西省吉安(きつあん)市)の人。1030年(天聖8)の進士。翰林(かんりん)学士を経て官は参知政事(副宰相)に至った。革新派の官僚として活躍し、1055年(至和2)に契丹(きったん)へ外交使節、1057年(嘉祐2)に知貢挙(ちこうきょ)(官吏任用試験の委員長)、1061年には皇位継承者の決定に手腕を示し、宰相に推薦されたが辞退している。

 彼は有能な官僚であったばかりでなく、多才であり文化史上に大きな足跡を残している。その最大の功績は、唐宋八大家の一人として実践を通じて唐の韓愈(かんゆ)らの始めた文章改革を完成し、以後の中国の文体を決定的に方向づけたことである。新文体による表現活動は多方面にわたるが、まず儒学では経書そのものを研究し、『詩本義』などを著して新風をおこした。次に史学では宋祁(そうき)と『新唐書』を完成し、ことに独力で著した『新五代史』は独自の史眼によっており、文学的にも高く評価されている。彼はまた古代の銅器の銘や碑文の文字を多数収集して『集古録跋尾(ばつび)』10巻を著し、金石学を開拓した。文学でも宋代風の基礎を固め、詩評書『六一(りくいつ)詩話』や随筆『帰田録』を創始している。全集に『欧陽文忠公文集』153巻がある。公務に忠実だが、官位に執着せず、余暇学問、芸術、趣味に遊び、しかも節度を保った彼の生き方は、文人官僚の一つの典型として、以後の人々に継承された。

[横山伊勢雄 2016年2月17日]

『清水茂訳『新訂中国古典選19 唐宋八家文 上』(1966・朝日新聞社)』『横山伊勢雄訳『中国の古典31 唐宋八家文 下』(1983・学習研究社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「欧陽修」の意味・わかりやすい解説

欧陽修 (おうようしゅう)
Oū yáng Xiū
生没年:1007-72

中国,北宋の文学者,歴史家,政治家欧陽脩とも書く。字は永叔,号は酔翁,のち六一居士,江西省吉安の人。幼いころに父に死別し生い立ちは恵まれなかったが,1032年(明道1)科挙合格後は比較的順調な官僚の道を歩み,61年(嘉祐6)には参知政事(副宰相)を務め,晩年は潁州(安徽省阜陽)に隠棲し悠々自適の生活を送った。政治家としての行動,学者としての見識,文人としての才気,いずれを取っても一流であり,多方面にわたるその業績は,まさに宋代士大夫の典型である。彼の生きた時代は,ちょうど北宋が前代の遺風を脱して独自の文化を創り出そうとする成熟期と重なり,文化全般のこの風潮を背景に,彼は経学・史学・文学などの分野で重要な変革に参画した。すなわち古典を扱う経学では,伝統的な訓詁注釈の議論に終始するのを改め,古典の本文そのものに密着して解釈する態度をとり,《春秋論》《易童子問》《詩本義》などの著作を残した。

 史学の面では,個人として《新五代史》を,勅命による共同編集として《新唐書》を作り,既存の《旧五代史》《旧唐書》と異なった視点から歴史をとらえ直す作業を試みた。そして文学では宋詩の力強い詩風を築き上げた第一人者である。彼は李白と韓愈に高い評価を与え,自らは理知的で流暢な作品を作った。思想の表明を重んじ抒情性を抑えたその作風は,主に古体詩の領域で特色を発揮した。散文の歴史でも,唐代の韓愈・柳宗元らによる古文運動以来,量的にも質的にも最大の成果をあげた。その文章は《唐宋八家文》を通じて日本にもなじみ深いが,奇抜で難解な表現を退け,平易で論理的でかつ品格を失っていない。詞,随筆,詩話でも非凡な才能を示した。古代の金石文に本格的研究を加えたのも欧陽修である。また人材育成にもすぐれ,不遇の詩人梅尭臣を世に紹介したり,蘇軾(そしよく)・蘇轍兄弟や曾鞏(そうきよう)など,北宋の文化を担った人々を科挙制度で抜擢した。その多彩な活動は,現存《欧陽文忠公全集》153巻がよく伝える。
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百科事典マイペディア 「欧陽修」の意味・わかりやすい解説

欧陽修【おうようしゅう】

中国,北宋の政治家,文人。字は永叔。江西省吉安の人。官について以後はしばしば上奏(直言)して左遷され,地方官を歴任したが,仁宗,英宗の代に多くの業績を残す。晩年は王安石の改革に反対して隠退。また早くから韓愈を慕い,古文を復興,唐宋八大家の一人となる。史家としても国家意識を強く打ち出し,《新唐書》《新五代史》等を撰した。
→関連項目亀田鵬斎金石学蘇軾梅尭臣

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「欧陽修」の意味・わかりやすい解説

欧陽修
おうようしゅう
Ou-yang Xiu

[生]景徳4(1007).6.21. 綿州
[没]煕寧5(1072).閏7.23.
中国,北宋の政治家,学者,文学者。吉州廬陵 (江西省吉安県) の人。字,永叔。号,酔翁,晩年は六一居士。唐宋八大家の一人。4歳で父を失い,天聖8 (1030) 年進士に及第。地方への左遷と中央への復帰とを繰返したが,嘉祐6 (61) 年副宰相となって晩年の仁宗を助けた。のち神宗の代になって王安石の新法に反対してまた左遷され,蔡州の知事を経て,太子少師を最後に官を去り西湖のほとり,穎川に隠居して,やがて没した。諡は文忠。詩,文の両面にわたって北宋の新しい文学の基礎を確立した中心者であり『六一詩話』など,また史家としては『新唐書』『五代史記』など,金石学では『集古録跋尾』『廬陵雑説』などを著わした。『欧陽文忠公全集』 (153巻) がある。

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367日誕生日大事典 「欧陽修」の解説

欧陽 修 (おうよう しゅう)

生年月日:1007年6月21日
中国,北宋の政治家,学者,文学者
1072年没

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世界大百科事典(旧版)内の欧陽修の言及

【義児伝】より

…中国,宋の欧陽修《五代史記》巻三十六に立てられた列伝。中国では家系を重んずる貴族制の崩壊に伴い,政治的軍事的意図から異姓間に養父子関係を結ぶことが行われた。…

【五代史】より

…各王朝ごとに本紀と列伝があり,合計本紀61巻,列伝77巻,ほかに志12巻があり,南方の十国については僭偽列伝として叙述している。(2)《新五代史》はもともと《五代史記》と称し,74巻で宋の欧陽修撰。5王朝を通して書き,本紀12巻と列伝45巻,志にあたる考は3巻だけであるが,十国については十国世家と年譜を設けた。…

【集古録跋尾】より

…10巻。宋の欧陽修の著。宋代は金石学,つまりこれらの拓本を歴史,文字,書道学等の対象として研究する学問のおこったときで,学者による拓本の収集が盛んに行われた。…

【書】より

…宋初には主として王羲之風の伝統的な書法が行われたが,第4代仁宗のころから,新しい書風が起こってきた。まず理論の面からその端緒を開いたのは欧陽修である。彼は〈筆説〉〈試筆〉《集古録跋尾》などを著し,書において最も大切なのは,技法の末節ではなく,書者の人物識見であるとし,一種の人格主義的な書論を唱えた。…

【書論】より

…しかし唐の中ごろに,張旭,懐素,顔真卿らが現れ,自由で潑剌とした書を書きはじめると,韓愈の〈送高閑上人序〉や雷簡夫の《江声帖》のように,それを理論的に裏づける試みもなされた。宋代になると,欧陽修が《集古録跋尾》《筆説》《試筆》を著して以来,書は主として題跋や随筆の形で鑑賞され,論評されることになる。例えば蘇軾(東坡)に《東坡題跋》,黄庭堅に《山谷題跋》があり,彼らは顔真卿の書を基礎として自己の書風を確立するとともに,新しい観点から顔書を書史の上に大きく位置づけることに成功した。…

【正史】より

…正史の呼称は《隋書》経籍志に始まり,《史記》以前の編年体の史書を古史というのに対して使われた。10世紀以後,政府によって公認された特定の史書に正史の名が冠せられ,司馬遷の《史記》にはじまり欧陽修の《五代史記》に至る歴代17種の紀伝体歴史書を十七史とした。正史の数は時代が下るにつれ増え,明代二十一史,清では二十二史となったが,乾隆以後,《旧五代史》《旧唐書》を加えて二十四史,1922年大総統徐世昌は柯劭忞(かしようびん)の《新元史》を入れて二十五史とした。…

【宋】より

…しかし太平になれた政府は,これに対して無為無策であったから,社会矛盾は年とともにはげしくなった。そこで1043年,范仲淹(はんちゆうえん),欧陽修らは仁宗の信任をえて行政改革を試みたが,多くの反対にあってわずか1年で挫折した。事態がいっこうに改善されないうえに,英宗朝になると,英宗の生父を礼法上いかに処遇するかをめぐって,朝廷を二分する大論議(濮議(ぼくぎ))が起こり,いたずらに政治の空白が生じた。…

【中国文学】より

… 宋代初期に四六文が盛んであったのは晩唐からの継続である。韓愈の古文を学び,これを世に広めたのは欧陽修で,詩人としてよりも散文家として大きな歩みを残した。彼が著した歴史《新五代史》は暢達(ちようたつ)な散文で書かれているし,随筆などに新しい領域を開拓した。…

【唐書】より

…本紀20巻,志30巻,列伝150巻から成る。《新唐書》は225巻で,宋の欧陽修らの奉勅撰。本紀10巻,志50巻,表15巻は欧陽修が,列伝150巻は宋祁(そうき)(998‐1061)が撰述した。…

【唐宋八家文】より

…正しくは《唐宋八大家文読本》といい,全30巻から成る。しかしこの沈徳潜本の成立までに明の茅坤(ぼうこん)の《唐宋八大家文鈔》と清の儲欣(ちよきん)の《唐宋十大家全集録》があり,しだいに《読本》の唐の韓愈,柳宗元,宋の欧陽修,蘇洵(そじゆん),蘇軾(そしよく)(東坡),蘇轍(そてつ),曾鞏(そうきよう),王安石に定着したのである。沈徳潜は同書の序文でも唐宋文から漢代の文章である漢文にさかのぼるべきであると主張している点でもわかるように,明の古文辞派の〈文は秦漢〉のスローガンにも,ある程度の同情を寄せている格調派の指導者である。…

【ハエ(蠅)】より

…19世紀の詩人C.クロスの作品の中でもっとも人口に膾炙(かいしや)している《燻製ニシン》という詩の場合にも,その底ではおそらくこうした俗信とかすかにつながっているのであろう。ハエに関する文学としては中国に,宋の欧陽修の《憎蒼蠅賦》があり,イギリスのW.ブレークの《蠅》がある。ただしそれぞれの詩人のハエに対する態度は正反対で,前者がひたすらハエを憎み,かんしゃくを起こしているのに対し,後者は自分をハエにたとえ,親近感を寄せて歌っている。…

【朋党】より

…唐代には門閥と貴族の争いが牛・李(牛僧孺李徳裕)の党争という形で起こった。宋代になって〈慶暦の党議〉が起こると,欧陽修が〈朋党論〉を書いて,道をもって集まった〈朋〉は君子のみがなし得るもの,小人には〈朋〉はない,として,〈朋〉を積極的に肯定すべきことを説いている。ついで王安石の改革をめぐって新法党と旧法党との間に激しい党争が行われた。…

【ボタン(牡丹)】より

…宋代には牡丹植栽の中心は洛陽にうつる。とくに中原中心の洛陽城内の地気が花の王者牡丹に一致すると,欧陽修が《洛陽牡丹記》で喧伝したことは,後世に大きな影響を与えた。すでに五代後梁の于兢(うきよう)をはじめ,蜀の黄居寀(こうきよさい)(933‐?)らは牡丹を画題に名をあげていたが,牡丹太湖石,牡丹と鶴や猫の絵も好んで描かれるようになり,また宋白(936‐1012)は自作の牡丹詩10首を石に刻し,郭延沢(かくえんたく)は牡丹詩1000余首を詠むなど詩人にももてはやされた。…

※「欧陽修」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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