中国,北宋の宰相。字は稚圭(ちけい),号は贛叟(こうそう)。相州安陽(河南省安陽市)の人。20歳で科挙に合格,若手官僚として,行政手腕を発揮し,無能な大臣を弾劾するなど活躍した。四川の飢饉救済に責任者となって成功し,1038年(宝元1)西夏の李(趙)元昊が宋朝に反旗を翻して独立すると,前線の司令官となり,涇州(甘新省涇川県)に駐屯して防衛に従事した。当時,〈韓范〉と並称されたのは,范仲淹とともに対西夏軍事政策をはじめ,多くの功績によるものであった。56年(嘉祐1)三司使(蔵相)になり,枢密使に転じたあと,58年宰相に就任,以後,仁宗・英宗・神宗の3代にわたって名宰相として重んぜられた。神宗のはじめ,弾劾によって宰相を辞めたが,王安石が新法を実施すると青苗法を非難し,王安石もこれに詳細に応答した。しかし新法派の王安石時代に韓琦の意見はいれられず,やがて病没した。諡(おくりな)は忠献。子孫は繁栄し,高官を輩出した。宋代屈指の名家の一つ。
執筆者:衣川 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、北宋(ほくそう)の政治家。安陽(河南省)の人。若くして進士に及第。政界の紀綱を正し、邪臣の弾劾に活躍、また体量安撫使(あんぶし)として四川(しせん)の飢民190万を救済した。西夏(せいか)の李元昊(りげんこう)の入寇(にゅうこう)を撃退し、30歳ですでに文武に名声が高かった。自ら求めて揚州(ようしゅう)知事などの地方官を歴任したが、1056年には三司使(さんしし)、枢密使、58年には宰相となり、約10年間にわたり国政に参画。その間国史の監修も行った。第6代神宗(しんそう)(在位1067~85)即位後、王陶(おうとう)の弾劾を受けてふたたび地方官となり、青苗(せいびょう)法や、また契丹(きったん)の求める領土割譲にも反対して王安石(おうあんせき)とまっこうから対立し、官を辞して没した。富弼(ふひつ)と並んで賢相と称された。著書に『安陽集』がある。
[柳田節子]
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