中国、北宋(ほくそう)の政治家。撫州(ぶしゅう)臨川(りんせん)(江西省)の人。字(あざな)は介甫(かいほ)、半山と号し、荊国(けいこく)公を贈られたので荊公ともよばれる。下級地方官の家に生まれ、1042年の進士科に高位で及第したが、中央のポストにはつかず、自ら望んで地方官を歴任して行政の経験を積んだ。仁宗(じんそう)(在位1022~1063)の末年に中央に帰ると、十数年の体験をまとめた長文の報告書「万言の書」を皇帝に提出して、政治改革の必要性を説いたが、当時は大臣たちに注目されなかった。その後、江寧(こうねい)(いまの南京(ナンキン))に帰って母の喪に服し、喪があけたのちもここにとどまっていたが、1067年青年皇帝の神宗が即位すると、皇帝の政治顧問である翰林(かんりん)学士に任命されて朝廷に召され、国政改革をゆだねられた。1069年に参知政事(副宰相)に上り、年来の抱負を実行に移すことになった。まず皇帝直属の審議機関である制置三司条例司を設けて、ここに少壮官僚を集めて新政策の立案にあたらせ、できあがったものから発布していった。1070年に同中書門下平章事(宰相)に上ると、条例司は必要がなくなり廃止された。
新政策は、まとめて「王安石の新法」とよばれ、均輸法に始まり、青苗(せいびょう)法、農田水利法、市易(しえき)法、募役法、保甲(ほこう)法、保馬(ほば)法など多くのものがあり、北宋中期以来の財政赤字を解消して国力を増強することを当面の目的とした。これらの新法に対して、従来甘い汁を吸っていた大地主・官僚・豪商らは猛然と反対の声をあげたが、神宗の強力な支持を得て遂行され、効果をあげた。ただ新法は富国強兵のみを目的としたのではなくて、究極的には士大夫の気風を一新し、実務に堪能(たんのう)で政治に役だつ人材を養成することにあり、その方策として、官吏に法律を学ばせ、学校教育を重視し、三舎法を定めて、卒業者をそのまま官僚に任命する制度をつくった。1076年に引退して江寧の鍾山(しょうざん)に住み、余生を送った。
また学者、文人としても当代一流であった。経学では、政治改革の理想とする『周礼(しゅらい)』に自ら注釈を加えた『周官新義』を著し、学校のテキストに用いて新法の指針とした。散文は欧陽脩(おうようしゅう)を師とし、警抜な発想をもって明晰(めいせき)で迫力ある文体をつくり、唐宋八大家の一人に数えられる。詩も高い評価を受けてきたが、鍾山に隠棲(いんせい)してからの、自然を詠じた作品がとくに優れているといわれる。唐詩を選集した『唐百家詩選』20巻、詩文集『臨川先生文集』100巻がある。
[竺沙雅章 2016年2月17日]
『清水茂注『中国詩人選集二集 4 王安石』(1962・岩波書店)』▽『佐伯富著『王安石』(1941・冨山房/中公文庫)』
中国,北宋の政治家,文学者。字は介甫,号は半山。文公と諡(おくりな)され,荆国公とも呼ぶ。江西省撫州臨川の出身だが,生涯の大半を江寧(現,南京)で過ごした。地方官だった父王益とともに各地を転々とする間,祖母や母親の薫陶を受けて勉強し,慶暦2年(1042)第4位で科挙に合格。19歳で父を亡くし,多くの兄弟家族をかかえた彼は中央の出世コースよりも収入の多い地方官のポストを選んだ。鄞(ぎん),舒州,常州など江南各地を歴任する間,地方政治の実情にふれ,問題を見つめ,改革を試みた。この経験はのちの彼の政策に十二分に活用された。1058年(嘉祐3),中央に戻った王安石は〈万言書〉と呼ばれる建白書を仁宗にたてまつり,人づくりを根本とした改革を唱えた。唐中期からの巨大な社会変革を経て,宋初の政治は折衷的,妥協的で,そこに契丹,西夏など民族自覚をもった異民族が出現したこともあって,軍事費,人件費が異常に膨張し,宋王朝は財政危機にひんしていた。韓琦(かんき)や欧陽修ら既成の政治家は表面を糊塗するだけで危機は深刻化する一方であった。67年(治平4)気鋭の青年皇帝神宗が即位すると,中央から離れていて名声の高かった王安石を登用し,抜本的な改革を行わせた。
69年(煕寧2)副宰相,ついで宰相となった王安石は,新法と呼ばれる諸政策をつぎつぎと発布した。青苗,募役,保甲,市易など十指にあまる新法は,財政の運用を改善し,大地主や豪商の収奪を抑え,健全な中産階級を育成するための新しい政策をふんだんに盛りこんでいた。それらは唐から宋の間に著しく発達した江南の進んだ社会の現実に裏打ちされたはなはだ進歩的なものであったが,反面,中原の保守的な地主,官僚の既得権を侵害する部分も多く,彼らは旧法党として反王安石運動を展開した。王安石は頑強に反対を押しきり若手の実務家を抜擢して新法遂行に全力をつくしたが,新法の運用のあまりの急激さ,人材が十分に王安石の意図を体現しなかったところへ,腹心呂恵卿の裏切りなども加わり74年下野する。翌年返り咲いたが,76年10月江寧に戻り,鍾山に隠棲して仏教との接触を深めつつ余生を送り,86年(元祐1),政権を握った反対派旧法党が新法をすべて廃棄するのを眺めつつ66歳で世を去った。
王安石は旧中国の政治家としては珍しく,祖宗の法や伝統の絆にしばられることが少なく,儒教イデオロギーの中でも歴史的要素の稀薄な《周礼(しゆらい)》と《孟子》を重視し,《春秋左氏伝》などを軽視した。彼と息子の王雱(おうほ)との共著《周礼新義》は改革のよりどころとして有名。王安石の新法は当時の社会を根底からゆるがす要素を含んでいたため〈名教の罪人(体制破壊者)〉として,南宋から清朝まで非難の対象となった。王安石個人もすね者と性格づけられ,芝居や物語でおとしめられたが,19世紀末から評価は一転し,現在では先覚者として高く評価される。詩と文にとくにすぐれ,杜甫の詩に傾倒し,《唐百家詩選》を編纂したほか,みずからは絶句に長じ,典故ある語句を巧みに詩語とした。文章は簡潔で力感あふれ,外面構成,理論的積上げともに群を抜き,唐宋八大家の一人である。
→新法党
執筆者:梅原 郁
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1021~86
北宋の新法改革政治家。撫州(ぶしゅう),臨川(りんせん)(江西省臨川市)の人。北宋中期,文治主義や社会不平などがもたらした軍事・財政危機にのぞんで若い神宗(しんそう)が1067年即位し,王安石を登用して再建を図った。彼は神宗の全面的信頼のもとに,69年副宰相,70年宰相となり,均輸法,青苗(せいびょう)法,市易(しえき)法,募役法などの財政・経済改革,保甲法・保馬法などの軍事警察改革,また学校,科挙制の改革を急進的に実施した。改革は時宜に適し財政も好転したが,一方祖宗の遺制を重視する官僚(旧法党)の猛反対があり,実行上にも官吏の不正や法の誤解があって素志が徹底しなかった。神宗の起こした軍事行動の失敗もあって,76年宰相を辞任し,改革の瓦解を郷里でみながら死んだ。詩人,学者,文章家としても著名。唐宋八大家の一人。
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…中国,北宋神宗の熙寧2年(1069)から,宰相王安石によって実施された革新政策すなわち新法を支持した一派。江南先進経済地域の出身者や,中小地主・商人の利益代表が多く,相対的に進歩的であった。…
…中国,北宋の王安石の新法の一つ。低利による農民への穀物貸付策。…
…事態がいっこうに改善されないうえに,英宗朝になると,英宗の生父を礼法上いかに処遇するかをめぐって,朝廷を二分する大論議(濮議(ぼくぎ))が起こり,いたずらに政治の空白が生じた。このような危局に即位した神宗は,王安石を抜擢(ばつてき)して,大規模な改革を行わせた。これを王安石の新法とよぶ。…
…欧陽修の先の評語は,ほとんど宋詩の本質を言いつくしたといってよい。 神宗時代に入り,王安石は政治的発言を託した議論詩を作る一方,透き通るような新しい抒情を創造し,士大夫の余裕の文学としての宋詩の性格は,いっそう明確になった。蘇軾(そしよく)(東坡)は,詩においても宋代第一の大家で,楽天の哲学にもとづき,機知とユーモアを交えて,余裕の詩として最高度の達成を示す。…
…つまり詩はいっそう知性的になったのである。北宋初期(11世紀の初め)の宮廷詩人の一群の詩は,のち〈西崑(せいこん)体〉とよばれる,李商隠の恋愛詩の模倣に力を費やすだけであったが,梅尭臣(ばいぎようしん)と王安石が出て,詩風は一変する。〈西崑体〉の詩人たちは律詩のみを作ったが,梅尭臣は古体(とくに五言古詩)を多く作り,それらは〈生硬〉のそしりを免れなかったけれども,確かに新しいスタイルであった。…
…正しくは《唐宋八大家文読本》といい,全30巻から成る。しかしこの沈徳潜本の成立までに明の茅坤(ぼうこん)の《唐宋八大家文鈔》と清の儲欣(ちよきん)の《唐宋十大家全集録》があり,しだいに《読本》の唐の韓愈,柳宗元,宋の欧陽修,蘇洵(そじゆん),蘇軾(そしよく)(東坡),蘇轍(そてつ),曾鞏(そうきよう),王安石に定着したのである。沈徳潜は同書の序文でも唐宋文から漢代の文章である漢文にさかのぼるべきであると主張している点でもわかるように,明の古文辞派の〈文は秦漢〉のスローガンにも,ある程度の同情を寄せている格調派の指導者である。…
…中国,北宋の王安石の新法の一つで,職役(しよくえき)の銭納化政策をいう。宋代,土地財産を持つ農民(主戸)はその所有高により九等の戸等に分けられ,上四等戸は職役を強制された。…
※「王安石」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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