中国,北宋の政治家。字は希文,諡(おくりな)は文正。蘇州の出身。2歳で父を失い,苦学して大中祥符8年(1015)の進士に合格,当時の有力者晏殊(あんしゆ)の知遇をうける。新しい科挙官僚すなわち士大夫階級の興隆の流れにのり,その指導理念形成に尽力した。天下の憂いに先んじて憂え,楽しみに後れて楽しむ〈先憂後楽〉をもとに,儒学を人格形成の実学たらしめんとする数々の主張は,宋学の先駆的位置におかれる。国都開封の知事として官僚派宰相の呂夷簡(りよいかん)と衝突,仁宗時代の党争の一方の旗頭となった。タングート(党項)族西夏との戦争が始まると,1040年(康定1)陝西の軍政に携わり,43年(慶暦3)副宰相となる。王安石の改革の先駆ともいうべき,行政・財政改革をはかったが理念的にすぎて失敗,晩年は杭州などの知事をつとめた。韓琦(かんき),欧陽修(おうようしゆう)らとともに,仁宗の〈慶暦の治〉の立役者として,後世の士大夫から理想化されるが,一族の生活安定のため義荘を設けるなど利財にも抜けめなかった。
執筆者:梅原 郁
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中国、北宋(ほくそう)の政治家。蘇州(そしゅう)呉県(江蘇)の人。字(あざな)は希文、諡(おくりな)は文正公。科挙に及第して官界に入ったが、宰相呂夷簡(りょいかん)一派の政治を批判して朝廷に派閥(朋党(ほうとう))の争いを起こし、しばしば左遷された。ついで西夏(せいか)防衛の司令官として西北辺境に数年間いたが、1043年中央に帰って参知政事(副宰相)にのぼり、欧陽修らと政治改革に着手した(慶暦(けいれき)新政)が、反対派の攻撃を受け1年あまりで挫折(ざせつ)した。彼は宋代の士風をつくりだした名臣と仰がれ、彼の「岳陽楼の記」のなかのことば「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみにおくれて楽しむ」は有名である。また一族の繁栄を図って設置した范氏義荘(ぎそう)は、後世の義荘の範とされる。著書に『范文正公集』がある。
[竺沙雅章]
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989~1052
北宋中期の政治家,学者。蘇州呉県(江蘇省)の人。欧陽脩(おうようしゅう)らとともに政界・言論界の刷新運動を起こし,胡瑗(こえん)らと儒教的人倫の強化を唱えて,宋学の先駆となった。また郷里蘇州に同族扶助の義荘(ぎそう)を設立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…中国,北宋の1050年(皇祐2),范仲淹が郷里の蘇州で設置したことに始まり,人民中国の誕生まで各地に存在した同族救済のための施設。本来は義田に付設された屋舎を指すが,一般には田・屋総称して義荘という。…
※「范仲淹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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