范仲淹(読み)はんちゅうえん(英語表記)Fan Zhong-yan

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

范仲淹
はんちゅうえん
Fan Zhong-yan

[生]端拱2(989)
[没]皇祐4(1052)
中国,北宋の政治家,文学者。呉郡 (江蘇省蘇州) の人。字,希文。大中祥符8 (1015) 年進士に及第。景祐2 (35) 年には吏部員外郎,権知開封府となったが,権臣の呂夷簡に反対したため左遷された。のち韓 琦 (かんき) とともに陝西経略安撫副使として夏竦 (かしょう) を助けて西夏防衛に功績をあげ,その後も資政殿学士などの中央の官や各地の知事などを歴任,潁州知事に赴任する途中病した。死後兵部尚書を贈られ,文正されたので范文正公と呼ばれる。北宋屈指の名臣で,名文家としても知られ,特に『岳陽楼記』は有名。またにもすぐれた作品を残している。詩文集『范文正公集』 (24巻) がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

はんちゅうえん【范仲淹 Fàn Zhòng yān】

989‐1052
中国,北宋の政治家。字は希文,諡(おくりな)は文正。蘇州の出身。2歳で父を失い,苦学して大中祥符8年(1015)の進士に合格,当時の有力者晏殊(あんしゆ)の知遇をうける。新しい科挙官僚すなわち士大夫階級の興隆の流れにのり,その指導理念形成に尽力した。天下憂いに先んじて憂え,楽しみに後れて楽しむ〈先憂後楽〉をもとに,儒学を人格形成の実学たらしめんとする数々の主張は,宋学の先駆的位置におかれる。国都開封の知事として官僚派宰相の呂夷簡(りよいかん)と衝突,仁宗時代の党争の一方の旗頭となった。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

范仲淹
はんちゅうえん
(989―1052)

中国、北宋(ほくそう)の政治家。蘇州(そしゅう)呉県(江蘇)の人。字(あざな)は希文、諡(おくりな)は文正公。科挙に及第して官界に入ったが、宰相呂夷簡(りょいかん)一派の政治を批判して朝廷に派閥(朋党(ほうとう))の争いを起こし、しばしば左遷された。ついで西夏(せいか)防衛の司令官として西北辺境に数年間いたが、1043年中央に帰って参知政事(副宰相)にのぼり、欧陽修らと政治改革に着手した(慶暦(けいれき)新政)が、反対派の攻撃を受け1年あまりで挫折(ざせつ)した。彼は宋代の士風をつくりだした名臣と仰がれ、彼の「岳陽楼の記」のなかのことば「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみにおくれて楽しむ」は有名である。また一族の繁栄を図って設置した范氏義荘(ぎそう)は、後世の義荘の範とされる。著書に『范文正公集』がある。

[竺沙雅章]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典の解説

はん‐ちゅうえん【范仲淹】

中国、北宋の政治家。字は希文。諡は文正。蘇州呉県(江蘇)の人。辺境を守って西夏の王、李元昊の侵入を防ぎ、その功により副宰相になった。著に「范文正公集」がある。(九八九‐一〇五二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

世界大百科事典内の范仲淹の言及

【義荘】より

…中国,北宋の1050年(皇祐2),范仲淹が郷里の蘇州で設置したことに始まり,人民中国の誕生まで各地に存在した同族救済のための施設。本来は義田に付設された屋舎を指すが,一般には田・屋総称して義荘という。…

※「范仲淹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報