斎藤博(読み)サイトウ ヒロシ

20世紀日本人名事典 「斎藤博」の解説

斎藤 博
サイトウ ヒロシ

大正・昭和期の外交官 駐米大使;ロンドン海軍軍縮会議全権随員。



生年
明治19(1886)年12月24日

没年
昭和14(1939)年2月26日

出生地
新潟県新潟市

学歴〔年〕
東京帝大法科大学〔明治43年〕卒

経歴
明治43年外務省に入り、大使館書記官、総領事として米英に駐在、パリ平和会議、ワシントン、ロンドン両軍縮会議随員などを経て外務省情報部長。英大使館参事官、オランダ公使から昭和8年アメリカ大使に就任。両国共同宣言案の締結に努力したが不発。12年のパネー号撃沈事件では政府訓令を待たず謝罪放送を行い両国間の危機を救うなど、日米関係調整に努力したが任地で病死した。米政府はその死を悼み巡洋艦アストリア号で遺骨を日本へ護送した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斎藤博」の意味・わかりやすい解説

斎藤博
さいとうひろし

[生]1886.12.24. 新潟
[没]1939.2.26. ワシントン
外交官,駐米大使。満州事変以後の多難な時代に,外務大臣広田弘毅により 1933年 12月 10日オランダ公使からアメリカ大使に抜擢され,日米関係の打開に努めた。その人柄は抜群の語学力と相まってアメリカ朝野から信頼を受けた。政府の帰国命令によりアメリカ大使を辞任後,任地で客死。アメリカ政府はその遺骨を巡洋艦『アストリア』で日本に礼送した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤博」の解説

斎藤博 さいとう-ひろし

1886-1939 大正-昭和時代前期の外交官。
明治19年12月24日生まれ。外務省情報部長,駐オランダ公使などをへて,昭和8年駐米大使となる。12年中国で日本軍機が米艦を撃沈したパネー号事件で,政府の訓令をまたず全米中継放送で釈明,危機回避につとめた。昭和14年2月26日ワシントンで死去。54歳。遺骨は米軍艦によって送還されるという栄誉をうけた。新潟県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「斎藤博」の解説

斎藤 博 (さいとう ひろし)

生年月日:1886年12月24日
大正時代;昭和時代の外交官
1939年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android