日本列島中央部の北西岸にあって、日本海沿岸の北よりの中央地域に位置する県。県庁所在地は新潟市。1980年代以降は、県などの推進する「環日本海経済世界」づくりの重要な拠点圏域であることから、「日本海東岸中央地域」に位置づけられる。伝統的な社会地理的地域区分では、中部地方東北端に位置する。中央日本の中部山岳地の北に展開する。歴史的には、福井・石川・富山3県とともに古く「越の国(こしのくに)」を構成した北陸地方の一部である。隣接する長野県とは県境が長く接して「信越地方」とまとめられ、郵政関係では同一行政区である。北陸とあわせて「北信越地方」とまとめられることもある。北陸道を介して長らく近畿(きんき)地方の畿内と結び付いてきた。江戸期以降は北前船などの歴史的な海上交通圏から、関西地方を通じて全国と関係し、近代以降は早く整備された中央線・信越線を介して東京および愛知・岐阜・三重の東海地方と結び付いた。電力資本の統合や産業振興、地域開発政策および国土整備政策からは、東北地方との関係も深くなっている。三国山脈によって長らく隔てられていた関東地方とも、1931年(昭和6)の上越線の開通によって直結し、就職や出稼ぎなどでのつながりは東海地方、関西地方、東京と急速に拡大していった。第二次世界大戦後、1962年、上野―新潟間が全線電化されると、特急「とき号」によって4時間40分で結ばれた。さらに上越新幹線(じょうえつしんかんせん)、関越自動車道(かんえつじどうしゃどう)が完成すると、産業取引や、習い事、演劇、音楽など文化・娯楽面、買い物、日常生活のうえから、関東地方の北西端に接して、東京などの文化経済圏と密接につながるようになった。
夏場(夏季)単作に限られた米作とコシヒカリなど普及種の全国市場制覇により、農業県の名をほしいままにしている。豊富な用水、石灰石と石油・ガスなど天然資源に恵まれて、早くから県内各地に電気化学工業や石油化学などが立地した。国際化時代にあたって、環日本海地域の中核県の役割をつとめ、環日本海経済交流と国際交流の中心に位置する「グローバルポリスにいがた」の性格を強くしている。
県の面積は1万2583.96平方キロメートルで全国第5位。うち佐渡島(さどがしま)は855.68平方キロメートル、粟島(あわしま)は9.78平方キロメートルである。耕地面積、可住地面積ともに北海道に次いで全国第2位(2020)。越後(えちご)の海岸線は約331.1キロメートルに及び、佐渡島は280.9キロメートル、粟島23.6キロメートル、合計で約635.6キロメートルとなる。2020年(令和2)の人口は220万1272人で全国第15位である。人口推移をみると、1995~2000年(平成7~12)は1万人強、2000~2005年は4万5000人弱、2005~2010年は約5万7000人、2010~2015年は7万人強、2015~2020年は10万3000人ほどの減少となっている。
2020年10月現在、20市9郡6町4村で構成される。
[高津斌彰]
新潟県のおもな平野は北から越後(えちご)(新潟)平野、柏崎(かしわざき)(刈羽(かりわ))平野、上越(頸城(くびき))平野であり、越後平野は信濃川(しなのがわ)水系を主体として、阿賀野川(あがのがわ)、荒川などの各河川の沖積平野で形成されている。東部は標高2000メートル内外の朝日・飯豊(いいで)・越後・三国(みくに)の各山地が連続して山形・福島・群馬各県との県境をつくり、西部は中部山岳アルプスの北端を形成する3000メートル級の白馬(はくば)山地とこれら東西の山地をつなぐ南部に1000メートル級の山地が長野県境をなす。西部の糸魚川(いといがわ)‐静岡構造線と東部の新発田(しばた)‐小出(こいで)線(これはさらに千葉県の銚子(ちょうし)まで連続するといわれる)が構成している大地溝帯を、頸城・魚沼(うおぬま)など第三系丘陵が埋めている。とくに興味深いのは、糸魚川‐静岡構造線である。基本的にはユーラシアプレートと北アメリカプレートとが接触する線に、太平洋プレートがぶつかって構成されて、複雑な地形と地質構造をつくっている。
生活の主要舞台は中部地方の中央部長野県内の各河川に源をもち、長野の諸盆地を貫流して成長する信濃川によって形成された広大な信濃川盆地であり、北半部は東北地方の福島県から流入する阿賀野川が形成する盆地・平野から構成されている。柏崎平野は鯖石(さばいし)川、高田平野は関川など河川のもつ諸営力によって形成されている。とくに日本最長の信濃川がつくる越後平野には、十日町(とおかまち)市、小千谷(おぢや)市、見附(みつけ)市、長岡市、三条(さんじょう)市、燕(つばめ)市、新潟市などの多くの市町村が成長している。
[高津斌彰]
気候は日本海型の北陸・山陰型に属し、冬季の積雪が非常に多く、夏季は高温多湿で、台風の影響は少なく比較的温和である。年間降水量は新潟市では全国平均に近く平均1750ミリメートル、降雪の多い上越市(高田)では約3000ミリメートルであり、日本では紀伊半島と並んで降水量のもっとも多い地方である。積雪は山間部では2~3メートルを超えるところもあるが沿岸部では少なく交通に支障をきたすことはほとんどない。降雨日数は200日であり、太平洋側の150~170日間に比べてかなり多い。冬季の降雪による降水量が50%以上を占め冬季は曇天と湿気が特徴である。しかし春季には乾燥する日が多く、夏場には太平洋側の低気圧の影響による山脈越えのフェーン現象にみまわれて、火災を発生することがある。冬の湿気も漬物や織物産業および近年の集積回路産業には最適環境であり、これら産業の発達をうながしている。素朴な山地と雪景色はスキーをはじめ観光資源として価値の高いものである。
[高津斌彰]
信濃川上流の津南段丘崖(がい)の貝坂(かいさか)・楢ノ木平(ならのきだいら)遺跡から、プレ縄文期の石器や住居跡が発掘されており、阿賀野川上流の津川盆地では、小瀬ヶ沢洞窟(こせがさわどうくつ)や室谷(むろや)洞窟から縄文早期から後期にかけての十数層にわたる数万点の石器、石鏃(せきぞく)、土器や人骨が発掘され、越後の縄文文化の編年が明らかにされている。また、津南の先土器時代人は、縄文中期には谷口の越路原(こしじはら)や関原(せきはら)台地に移って、有名な火炎型土器文化の黄金時代をつくった馬高遺跡(うまたかいせき)を残し、縄文前期の大集落群も発掘されている。さらに、近くの三十稲場(いなば)に残る後期遺跡や、段丘東麓の藤橋・富岡(とみおか)遺跡には、縄文晩期から弥生(やよい)時代の遺跡が続いている。また、火焔型土器を含む十日町市中条の笹山遺跡(ささやまいせき)から出土した土器群は県内唯一の国宝に指定されている。同様な関係は下越の山麓台地面にも多くみられるし、佐渡の国中平野の大佐渡・小佐渡山麓台地には縄文中・後期の遺物出土遺跡に続いて、段丘崖端には多くの「玉作遺跡(たまつくりいせき)」が分布し、国府(こくぶ)川中流には、農耕生活を示す千種弥生遺跡(ちぐさやよいいせき)が発掘されている。これらの縄文期遺跡は、前期は北方系のものが多く、中・後期遺跡は関東・北陸型の南方系のものが多い。
古墳時代に下ると、越後では頸城平野の斐太(ひた)・菅原(すがはら)古墳や六日町盆地の余川(よかわ)古墳、角田(かくだ)山麓の菖蒲塚古墳(あやめづかこふん)(国指定史跡)などの大古墳群が県の史跡として保存されているし、佐渡の真野湾岸にも西三川(にしみかわ)古墳群が残り、これらは北陸・上毛(じょうもう)型の影響を受けているといわれている。『古事記』『日本書紀』などの史書にみえる本県の古代は、「越ノ州(こしのしま)」「佐渡州(さどのしま)」の2国であるが、このころの越国(こしのくに)(高志国(こしのくに))は日本海岸の北陸一帯を総称したもので、中央からはほど遠い蝦夷(えぞ)との接点であった。記紀では、北陸道の四道(しどう)将軍大彦命(おおひこのみこと)がこの蝦夷の平定にあたったとされている。高志国が越前(えちぜん)、越中、越後に分かれたのは7世紀の持統(じとう)朝のころからで、久比岐国造(くびきのくにのみやつこ)、高志深江(ふかえ)国造、佐渡国造が置かれていた。文武(もんむ)天皇の702年(大宝2)には越中国の蒲原(かんばら)、魚沼(いおぬ)、古志(こし)、頸城の4郡を分けて越後国とし、越後・佐渡の両国の範囲も確立され、渟足柵(ぬたりのき)、磐舟柵(いわふねのき)がつくられて、蝦夷に対する前線基地をなしていた。721年(養老5)には越後7郡34郷、佐渡3郡22郷の行政区も定まり、佐渡の真野と越後の久比岐(頸城)(比定地不確定)に国府・国分寺が置かれた。743年(天平15)佐渡は越後に合併されたが、752年(天平勝宝4)独立した。『和名抄(わみょうしょう)』に載る平安時代の越後の水田面積は1万4997町余で、現在の10分の1にもあたらない少ないものであったが、班田制施行に必要な条里制の遺構は、いまも佐渡の国中平野山麓や頸城平野の飯田(いいだ)川沿岸で確認されている。「燃ゆる水」(石油)や越後上布(じょうふ)を特産として朝廷に献上し、佐渡が「遠流(おんる)の島」に指定されるのもこのころであった。
[山崎久雄・高津斌彰]
源頼朝(よりとも)が鎌倉に幕府を開くと、関東御家人(ごけにん)の秩父(ちちぶ)平氏や三浦・和田・佐々木氏などを守護・地頭(じとう)として越後一円を支配させたので、越後も中央政権とのつながりが深くなり、関東分国的地位を保つようになった。室町時代は足利尊氏(あしかがたかうじ)の命によって、関東管領(かんれい)家の上杉氏が守護職につき、守護代長尾氏が春日山城(かすがやまじょう)を居城とし実権を握っていた。南北朝時代から戦国時代にかけては、関東管領家の上杉氏と守護代長尾氏の長い国内争乱期が続いたが、これを鎮めたのが長尾景虎(かげとら)で、のちに上杉氏の家督を譲り受けて上杉謙信となった。謙信は春日山城を根城として甲斐(かい)の武田氏と覇権を争い、関東・信越を征服して北国最大の戦国大名にのし上がった。当時府内の春日山城下は人口3万余といわれた大城下町であった。その山城(やまじろ)遺跡春日山城跡は国の史跡に指定されて保存されている。
[山崎久雄・高津斌彰]
豊臣(とよとみ)秀吉は上杉氏の越後における実力を恐れて、1598年(慶長3)には上杉景勝(かげかつ)を会津120万石に移封し、越後は譜代(ふだい)の堀秀治(ひではる)一族と、与力(よりき)大名溝口秀勝(ひでかつ)や村上義明(よしあき)を新発田、村上に配し、佐渡の金山は直轄領とした。江戸時代に入っても、徳川家康は秀吉の分国策を引き継いで、六男松平忠輝(ただてる)を高田城主に配して親藩とし、長岡には駿河(するが)以来の直臣牧野氏を置いてこれを助けさせ、新発田、村上、村松の外様(とざま)大名を抑えた。かかる近世初期からの所領分割策で、幕末には越後11藩と多くの天領・諸大名領が交錯する徹底した小藩分立国となった。
幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、県内諸藩は征討(官)軍を支持して順応したが、長岡藩は会津方に味方し西軍と対立し、各地で激戦が行われた。このため長岡城は二度の落城で城下町は焼け野原と化し、壊滅的打撃を受けた。
廃藩置県(1871)により、新潟、柏崎、相川の3県に分けられたが、1873年(明治6)柏崎、1876年相川が統合されて新潟県となった。さらに1886年、福島県に属していた東蒲原郡が新潟県に編入されて、現在の県域が確立された。
[山崎久雄・高津斌彰]
本県の最大の課題は、低湿平野の治水干拓と新潟港の築港であった。砂丘裏のラグーンは、分水や用排水機場の完成で美田化され、蒲原平野は全国一の越後米の産地となった。この間、蒲原平野の干拓地は大地主に集積され、いわゆる千町歩地主は5家を数え、わずか10人の地主で蒲原平野の耕地の75%が独占される大地主王国を誕生せしめた。この蒲原大地主も、第二次世界大戦後の農地解放(1945~1948)で自作農化が進み、地主制も消滅した。1964年(昭和39)6月には粟島を震源地とするマグニチュード7.5の新潟地震にみまわれて、砂質土壌を基礎とする新潟市域には地盤液状化現象で多くの建物が沈降や倒壊するなど大きな被害があった。奇跡的に人命被害はなかったが、石油施設に大規模火災がおこり、臨港町など信濃川河口近くの広範囲の家屋が浸水にみまわれた。
[山崎久雄・高津斌彰]
県民所得は全国の中位にあることが多かったが、1990年(平成2)の全国の第26位から1994年には第18位にあがっている。上越新幹線の整備や北陸・関越自動車道路の拡充による全国随一の工場進出と商業活動の高度化・活性化がもたらしたものである。早くから石油、石灰石、ガス、水力発電による低廉な電力エネルギーさらに用水供給に恵まれて、新潟県は硫酸・石油・化学・肥料・電気鉄・アルミなど重化学工業の工場が立地されてきた。しかし、高度経済成長以降は広範な産業構造変化に遭遇して、多くの中央資本による新潟工場の移転引上げや閉鎖、生産縮小、業種転換などによって、工業生産額は比重を下げてきている。このような動向ではあるが、1970年代後半以降になると、日立製作所(胎内市)、松下電子工業新井工場(妙高市、2011年閉鎖)、新潟三洋電子(現、オン・セミコンダクター社、小千谷市)等の機械産業(電気・輸送・一般機械など)の都市型製造業が立地・展開し、工業生産の中心を機械工業が占めるようになった。機械製造業が県内工業出荷額の第1位である。一方、米の生産量は全国の約8%を占めて第1位であり、現在でも日本の代表的な穀倉地帯である。米単作地帯の性格にもようやく、果樹、花卉(かき)、野菜など高度多角化経営農業への指向が若手農家を中心に生まれてきている。
[高津斌彰]
米の作付面積が77%、野菜が10%で、米単作地帯の特徴はいまだに強く、米生産量は全国の8.4%で第1位である。しかし野菜や花卉の作付がゆっくりだが増えつつあり、切り花のユリ、チューリップ、球根のユリ、チューリップ、アイリスの生産は全国第1、2位を占めるなど、1980年代以降ようやく付加価値の高い農業経営の研究が若手農家で取り組まれている。農家数・農家人口はともに減少しているが、県人口に占める割合はいまだ22.4%であり、秋田、岩手、山形、福島、鳥取、島根、佐賀県に次いで全国第8位である。耕地面積3ヘクタール以上層が7.2%もあるなど、平均経営規模は小さくないが、1戸当りの平均農家所得は80%が農外所得に依存している。専業農家は依然として少なく、専業農家率は全国第28位である。水田は越後・柏崎・高田平野に多くみられる。近世末から明治初めに千町歩地主が成立したが、大正期から木崎、大番田(おおばでん)、和田などの大規模な小作争議も頻発した。戦後は大規模な耕地整理が進められたことと大型の近代的排水機場が多く設けられて、乾田化が進み、1965~1966年の「新佐賀段階」に続いて、米作収量も増大し、新潟米の安定した市場を確保し、「コシヒカリ」など差別化された米産地の確立ができた。
森林面積は民有林が卓越し56万ヘクタールで、広葉樹が多く、林業はふるわない。とくに山林所有者の95%が農家でその90%が3ヘクタール以下の零細経営である。用材も積雪と地滑りの影響で「根曲がり杉」となり、薪炭需要がなくなった近年では高価値経済林の経営は望めないのが実態である。
[高津斌彰]
サンマ・イワシが漁獲高の主体であり、カツオが10%、マグロ、イカが5%内外となる。漁船は3トン未満が88%を占め、沿岸沖合い漁業で、海岸線が長く漁港も多いわりには、漁獲量はきわめて少なく、全国の2割弱を占めるにすぎない。内水面漁業に三面(みおもて)・阿賀野川のサケ、山古志(やまこし)・小千谷の錦鯉があるが、わずかであり、水産研究所を中心にした新しい養殖漁業の革命的な発展が期待されるところである。
[高津斌彰]
日本の原油生産量はもともと総消費量の1%内外であり、きわめて微々たるものであるが、その90%近くは新潟県で産する。また天然ガスの生産も全国の65%を占める。早くから水力電気生産に恵まれ、1960年(昭和35)からは火主水従にかわり、1984年からは東京電力柏崎発電所第1号機の原子力発電も加わり電力生産は盛んである。県外への送電割合は電気事業者で70%、自家用でも34%に上る。
工業では、石油、電気、石灰石化学原料とエネルギー源などに恵まれて、石油精製、化学、硫酸、肥料、鉱山機械などの生産が早くから展開し、近代工業発展の基盤が形成された。さらに石灰石と低廉な電気に恵まれて、電気化学工業、電気製鋼部門が発展し、戦時の工場移転による機械・アルミ産業、戦後のガス開発ブームによるアセトアルデヒド・ホルマリンなど化学工業の基礎部門が確立した。新潟や中条(現妙高市)に肥料製造など化学コンビナートも形成された。近代工業は、新潟、長岡、柏崎、上越、糸魚川など広範に形成され、1963年には新潟市を中心にした5市16町村が「新産業都市域」に指定されたが、資源型工業から加工組立型工業あるいはハイテク型へと広範な産業構造変化にオイル・ショックも加わって、順調な発展は望みえなかった。1977年には長岡ニュータウンの開発事業が始まった。1983年には長岡テクノポリス開発機構が設立されて、信濃川流域平野に、本格的な近代的電子産業やバイオ産業などの立地発展の基礎が形成された。翌年、小千谷市には半導体・集積回路生産の大手新潟三洋電子(現、オン・セミコンダクター新潟)が進出した。
これに先んじて新井市(現、妙高市)には豊富で良質な水と労働力を求めて1976年に松下電子工業の工場が進出し(2011年閉鎖)、中条の日立製作所(現、日立産機システム)をはじめ、柏崎市、佐渡などに新しいIC集積回路およびその加工産業も誘致されて、工業近代化も進んだ。長らく化学、繊維、食品、金属工業中心であった産業構造も、近年では電気機械工業、一般機械工業を中心に機械工業の発展が著しい。電気機械工業は電子部門を中心に出荷額5兆円の5分の1を占めるに至って、すっかり様相を一変している。出荷額5兆円は石川県と福井県の合計を上回る。工場立地件数が日本最高であることも理解できる。
他方、三条市・燕市およびその周辺の金属加工・洋食器生産や十日町、見附(みつけ)、五泉(ごせん)・加茂(かも)市などの絹・合繊織物、あるいはニット(編み物)産業など古くから伝わる在来・伝統産業を基礎とした地域企業も各地に広く発展している。しかし、広範な国際経済環境の変化と日本経済の国際化は県内地場産業の基盤をも揺るがせており、五泉を中心とする新潟ニット産業の総売上の86%は海外からの輸入品となっている。1980年代中ごろの産地状況からは考えられなかったことである。現在は中国、韓国、アメリカからの輸入の順であり、今後は高級品部門にイタリア・フランス製品が増加する可能性が高いとみられている。近年の課題には単純に環日本海経済圏や従来どおりの生産基地つくりである東港工業地帯のFAZ(ファズ)(輸入促進地域)指定や、国際空港および西商業港のインフラ整備があげられているが、抜本的なものづくり哲学のチェックと人間的情報の授受こそが新しい本県の産業基盤整備とならざるをえない。県内各地のバイオ・ハイテク産業、新しい地域企業育成があげられているが、これらを従来どおりの土木工事的基盤整備に終わらせてしまうか、21世紀の全地球的人間都市の情報発信基地化するかは、ひとえに、この地域の全住民が人間的都市づくりにどの程度目覚めるかによっているといわなければならない。とくに1970年代後半から、長岡技術科学大学の設立をはじめ長岡市、柏崎市、新潟市などに造形・産業・経営・国際情報など関係大学および研究機関が続々と設立されたが、そこにどんな新しい自主的・主体的内容を盛り込むかが発展の課題である。とくに本県工業は、産額3兆8000億円の富山県に比べて事業所規模は小さく、1事業所および従業員1人当り出荷額が低い。この点では新しい需要に敏感に対応可能な小回りの利く、ネットワーク経営社会の構築には、経営者の主体性いかんによっては、かえって有利と考えることもできる。婦人団体を中心にして、「県民にやさしく、緑豊かな『オアシスにいがた』」や「世界に開かれて、環日本海時代の国際交流と平和の拠点『グローバルポリス=新潟』」を合い言葉に県民あげて新しい新潟県づくりにまい進している。
[高津斌彰]
新潟空港が1996年(平成8)に「地域拠点空港」指定を受けるなど、日本の航空交通網の整備進展と同時に新潟県の航空網整備も著しいものがある。1997年の国内線では札幌、仙台、小松、名古屋、大阪、広島、福岡、佐渡便の定期航空路に女満別(めまんべつ)(6~10月)、函館(4~10月)、沖縄(11~3月)の季節便があり、国際便ではソウル(140分)、ハバロフスク(135分)、ウラジオストク(140分)、イルクーツク(270分)への定期便が運航していた。滑走路の2500メートル化と空港ターミナルの新装もなって、上海(シャンハイ)経由で西安(せいあん/シーアン)と結ぶ便は1998年2月に、新潟―ハルビン便は同年3月に運行が開始され、2018年3月では国内9路線、国際4路線に定期便が就航している。
新潟港は国際拠点港湾ならびに中核国際港湾に指定されており、船便による定期航路は、近年の東南アジアに対する貿易拡大もあって、とくにコンテナ船の増便が著しい。2018年(平成30)には、フルコンテナ船航路が釜山(ふざん/プサン)便が週8便、上海便が週3便、寧波(ねいは/ニンポー)便が週1便、大連(だいれん/ターリェン)便が週4便、青島(チンタオ)便が週3便、天津(てんしん/ティエンチン)新港便が週1便である。内国航路としては新潟―小樽(おたる)間(約16時間)などが活躍している。新潟―佐渡間はジェットフォイルで約60分、カーフェリーでも約100分と目覚ましく時間が短縮された。
高速交通時代の幕開けは、高速鉄道である「新幹線」と高速自動車道である「自動車専用道路」の全国展開をもたらしたが、新潟県内では、大宮―新潟間の「上越新幹線」が1982年(昭和57)に開業し、続いて1991年(平成3)には東京駅までが完成した。2015年(平成27)には北陸新幹線が金沢まで延伸し、県内に新たに上越妙高、糸魚川の2駅が設置された。一方、長野―直江津(なおえつ)間の信越本線および直江津―金沢間の北陸本線はJRから第三セクターに移管され、新潟県部分はえちごトキめき鉄道となった。1985年には新潟―東京間の「関越自動車道」が全線開通し、1988年には新潟―北陸・関西への「北陸自動車道」が相次いで全線開通した。1997年10月には新潟―会津―磐城(いわき)間の「磐越自動車道(ばんえつじどうしゃどう)」と長野オリンピック開催に先んじて「上信越自動車道」の長野―東頸城郡中郷村(現、上越市)間が相次いで開通した(上信越自動車道も1999年に全線開通)。全県が高速自動車道時代に入ったといえる。残されているのが「日本海沿岸東北自動車道」の一部区間の建設整備である。また長年にわたる魚沼・頸城地域住民の希望であった六日(むいか)町―犀潟(さいがた)間の「北越北線」敷設計画は、上越新幹線の越後湯沢駅から、直江津経由の富山・金沢行きスーパー特急の要求と重なり、1997年4月に第三セクターの北越急行ほくほく線として開通した。越後湯沢―直江津間が特急「はくたか」で50分内外、普通で100分で結ばれ、沿線には10の駅が山間盆地に新設されて西魚沼・東頸城地方の経済活性化を促してきた。しかし、北陸新幹線の金沢までの延伸に伴い「はくたか」での連絡は廃止された。
新潟県の陸上交通は、歴史的に早く開けた新潟の西の玄関口である上越地方から始まった。1886年(明治19)には早くも直江津―関山(せきやま)間が開通している。それは国防上・国策上早くに計画された「中山道幹線」(現在のほぼ中央本線)への資材運搬線として直江津―上田間に計画されたからである。幹線計画が東海道に変更されても、工事は進められた。その後1888年には軽井沢まで、1893年には上野まで開通して、新潟と東京とが西の玄関口で直接結ばれた。三国(みくに)峠の清水トンネルが開削されて、越後湯沢を南の玄関口にした「上越線」が開通するのは、38年後のようやく昭和に入ってからの1931年(昭和6)であった。県内の民間鉄道整備の動きも西の地に早かった。渋沢栄一(しぶさわえいいち)と上越市出身で日本の郵政事業の確立につくした前島密(まえじまひそか)らが、私鉄「北越鉄道」を興し、上越市の春日新田(かすがしんでん)から東の新潟の沼垂(ぬったり)まで開通させた。これが国に買収されて今日に至っている。北陸本線(新潟県部分は現えちごトキめき鉄道)、羽越本線(うえつほんせん)も整備されて、日本海沿岸諸都市との近代的な連絡と交通が可能になった。ちなみに1877年(明治10)の陸上交通の未整備期に新潟を訪れたイギリスの女流探検家で、『日本奥地紀行』を著し、後にイギリス王室地理学会員に列したイサベラ・バードIsabella Lucy Bird(1831―1904)なども東の玄関口であった会津から阿賀野川下りの船便によって新潟訪問を果たした。
道路は日本海沿岸沿いの基幹道路に、北には国道7号が新潟―青森間、西には国道8号が新潟―京都間を結んだ。南には国道17号が三国峠を越えて新潟―関東を結び、国道18号が新潟―長野県と結んだ。49号は阿賀野川・会津街道沿いに、国道113号は米沢街道沿い、国道148号は糸魚川からの姫川街道を上る形で整備された。このほか1980年ごろから県内の山間僻地(へきち)をつなぐ自動車道も整備され、冬季の交通途絶の状態はほぼ解消された。一般的な生活の向上も著しく進んで、交通整備の社会発展との関係の深さを証明している。
[高津斌彰]
新潟県は、良寛や鈴木牧之(ぼくし)など多くの偉人を生んでいる。僧職にあって多くの漢詩、和歌、書芸に偉才を示しながら、豊かな慈悲と寛容の精神によって今も時代を超えて広く世に親しまれている良寛は、1758年(宝暦8)出雲崎の名主兼神官の長男として生まれ、18歳で就いた名主見習い役を1か月で辞して僧職に入った。豪雪地の越後住民の生活の実態を記述して、今日も広く文庫本で親しまれている『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を江戸(東京)に出て出版した鈴木牧之は、1770年(明和7)当時の縮(ちぢみ)の集散地の魚沼郡塩沢村の縮仲買兼質屋に生まれた。牧之の文才・画才は俳諧をよくした父や姉婿などをはじめとする身近な魚沼俳壇の影響が強いといわれている。
こうした越後庶民の文化に越後各藩の藩学の流れが加わるのは、藩政の弱体化が始まる宝暦(1751~1764)のころからである。全国的には寛政~文政のころ(1789~1830)といわれるから越後雄藩における藩校設置はけっして遅くないことを知ることができる。越後には11の藩校が数えられるが、新発田藩(しばたはん)の「道学堂」は5代藩主溝口重元(しげもと)によって1715年(正徳5)に開かれた講釈から始まっている。伊藤仁斎(じんさい)の門人緒方源十郎を師範として「仁斎学」を講じた。長岡藩の「崇徳館(そうとくかん)」は1808年(文化5)9代藩主牧野忠精(ただきよ)が設けた茅葺(かやぶ)き二階建て160坪半の藩校として始まった。講義の中心は「徂徠学(そらいがく)」であり、生徒は足軽階層を除く武士階級で年齢は問われず、常時200人を数えたといわれる盛況であった。村上藩の「学館」は後には「克従館」と改められたが、文化年間(1804~1818)に、6代藩主内藤信敦(のぶあつ)によって始められた。藩主信敦自らが「経書」の素読・講義を行い、儒教的徳治主義を説いて始まった。後に藩出身の平井佳融(よしあき)(松蔵)に譲られた。家老以下15~59歳の藩士全員が聴講する決まりであったといわれる。高田藩の「修道館」は1866年(慶応2)14代藩主榊原政敬(さかきばらまさたか)の設置による。1869年(明治2)の新学制発布により新しい「修道館」として引き継がれた。
明治期からの教育行政の展開も早く、1874年(明治7)県内初の教員養成機関の新潟師範学校が設立され、1890年ごろからは県内中学校・師範学校の整備が進み、新潟商業学校(1889)、新潟(1892)、高田・長岡(1893)、新発田・佐渡(1896)、柏崎・村上(1900)などの中学校が続々と設立された。師範学校には、高田師範学校(1899)、新潟県立女子師範学校(1900、古志郡)が続いた。一方、近代医学教育の整備は戊辰(ぼしん)戦争時の1868年(明治1)、官軍による仮設の「新潟軍病院」におけるイギリス公使館付き医師ウイリスWilliam Wilis(1837―1894)の指導などから始まった。制度的には新潟病院の県営化による「県立新潟病院」の1876年開設が始まりとされる。1878年に明治天皇医学所訪問と眼病治療御下賜金による眼科講習所の設置があり、1879年には「県立新潟医学校」と改称されて、病院付属の形から医学校付属の病院へと初めて現在に近い形になった。しかし軍備拡張と医学教育の国家管理強化との政府の意向による1887年の「勅令48号」とこれに迎合する県議の動きによって、1888年には医学校はあえなくもいったん廃校された。その後の地元の強い官立医学専門学校の設立運動と1903年の「専門学校令」によって、ふたたび医学校が新潟の地によみがえることになり、1910年「官立新潟医学専門学校」が設立された。さらに1922年(大正11)には政府の近代化策と富国強兵策の一環としての教育の普及の波にのって「官立新潟医科大学」に昇格した。岡山、千葉、金沢、長崎の4医科大学と同時の昇格創立であった。直接のつながりはないが、県内には新潟開港もあって設けられた「種痘所」と、一般には「施蘭薬院(せらんやくいん)」として知られた「新潟県施薬院」が1869年に設けられた。
第二次世界大戦後は1949年(昭和24)の「国立学校設置法」に基づき同年6月旧制「新潟医科大学」を中心にして旧制「新潟高校」、新潟、長岡、高田、新発田など各地に分散していた旧師範学校、旧農業、旧工業各専門学校を母体にして5学部からなる国立「新潟大学」が生まれた。初代学長は最後の医科大学長橋本喬が勤めた。その後、歯学部の増設や人文・法・経済学部の独立や各種付属研究所の設置、大学院修士課程に自然系・人文社会系の総合大学院博士課程などが次々と整備されて、人文、法、経済、教育、理、工、農、医、歯、創生の10学部と6総合大学院で構成されている。大学院には自然科学研究科、現代社会文化研究科および医歯学総合研究科の博士課程が設けられており、そのほか脳研究所、および各種の研究センターが附置されている。積雪地域災害研究センター、地域共同研究センター、情報基盤センター、アイソトープ総合センターなどがあり、まさしく総合大学のかたちを表している。
また国立大学には上越教育大学、長岡技術科学大学、公立は新潟県立大学、新潟県立看護大学が加わり、私立には新潟薬科大学をはじめ南魚沼市の国際大学、そして新潟産業大学、長岡造形大学(2014年公立に移行)、新潟工科大学、新潟国際情報大学、新潟経営大学、敬和学園大学などが設立されて2018年(平成30)時点で、20大学(国立3、公立3、私立14)となっている。そのほか私立の新潟青陵短期大学など5短期大学、1高等専門学校がある。大学進学率は2009年度は過去最高の49.0%となった。
トリケラトプスの骨格模型や県内ではもっとも優れた科学教育施設や模擬実験施設を擁して県民に親しまれている「新潟県立自然科学館(恐竜博物館)」、地球誕生からの地球発達史とプレートテクトニクスおよびフォッサマグナを生き生きと説明する糸魚川市の「フォッサマグナミュージアム」をはじめ、「長岡市立科学博物館」「上越市立総合博物館」など多くの博物館が広く県民に親しまれている。美術館にはボナールやレジェの作品の所蔵を誇る「新潟市美術館」、近代日本美術を中心として1270点余のコレクションを誇る私立の「敦井(つるい)美術館」、長岡市に建設された県立美術館で、国際的な海外美術から、「大光コレクション」を中心にした明治以降の日本美術、県内出身作家の郷土の美術作品まで系統的なコレクションと展示をする「新潟県立近代美術館」をはじめ特徴のある美術館が多数存在する。記念館には日本の郵便制度の整備につくした前島密(まえじまひそか)の関係遺品を展示する「前島記念館」、豊かな童話作家の遺品を展示する糸魚川(いといがわ)市の「相馬御風(そうまぎょふう)記念館」、出雲崎(いずもざき)の「良寛記念館」、塩沢の「鈴木牧之記念館」、書家を楽しませる「会津八一(あいづやいち)記念館」など郷土が生んだ偉人の記念館が多くみられる。産業関係では、近代石油産業の発展史の関係文献と産業遺産を展示する「石油記念館」、佐渡の金山の産業遺産を展示する「相川郷土博物館」をはじめ多くの記念館を県内各地にみることができる。このほか公民館は早くから県内各地に用意されてきた。
新聞には、日本海側最大の地方紙である『新潟日報』があり、放送は、NHK新潟放送局が1931年(昭和6)に放送を開始しており、民放は、BSN新潟放送、NST新潟総合テレビ、TeNYテレビ新潟放送網、UX新潟テレビ21の4社がある。
[高津斌彰]
新潟県の民家を代表するものに「中門造(ちゅうもんづくり)」がある。雪が深く建物を分散すると生活に不便なので、母屋(おもや)に厩(うまや)、納屋(なや)、便所などをくっつけた、いわゆるL字形の「曲屋(まがりや)」形態の民家のことである。佐渡では中門造は少なく、越中風の広間型間取りとなって、高床式で柱や天井張りを漆塗りにした豪華な民家が多い。
雪国の町屋づくりは店の間口が問題となるので、妻入(つまいり)で通り「ニワ」に沿って店、茶の間、台所、寝間と続く縦割型が多く、前は「雁木通り(がんぎどおり)」となる。冬は主道が屋根の雪下ろしで通れなくなるので、雁木通り形態が各町を特色づける名物であったが、いまはアーケード通りにかわって昔の雁木通りを残す所は少ない。
長い冬の農閑期をもつ雪国の食生活にも、食い延ばしに苦心した各地のカテメシ、ゾウスイなどの主食や、アンブ、カキッポなどの間食となった粉食の郷土食に珍しいものが多かったが、いまはその名前さえ忘れられてしまっている。昔は、米飯が食べられるのは、盆、正月の「晴の食(はれのしょく)」のときのみで、正月などにはサケの切り身にごった煮などの料理を食べて、鳥追い行事や小正月(こしょうがつ)のどんど焼き(塞神(さえのかみ))を楽しんだものである。魚沼や頸城地方はこれらの民俗行事の宝庫とよばれた純朴な風土であったが、現在ではほとんど廃れてしまっている。
方言では、蒲原地方の東北弁、頸城地方の信州弁、西頸城地方の越中弁、佐渡地方の上方訛(かみがたなま)りに特色がある。
国の特別天然記念物、天然記念物、名勝などには三条(さんじょう)市笠堀(かさぼり)のカモシカ生息地や、白馬岳(しろうまだけ)のライチョウ、尾瀬の湿原、糸魚川市小滝(こたき)川の硬石産地、村上(むらかみ)市の笹川(ささがわ)流、佐渡の外海府(そとかいふ)・小木(おぎ)海岸の景勝地など数多い。また、小千谷市では、越後上布や小千谷縮の生産技工者が人間国宝(重要無形文化財)の指定を受け、奥三面(おくみおもて)の狩猟習俗「マタギ」、津南町のアンギン工具、糸魚川市大所の木地屋(きじや)習俗などとともに、全国的に珍しい民俗風習も保存されている。
郷土芸能や風俗習慣面では、弥彦(いやひこ)神社の灯籠(とうろう)おしと舞楽、柏崎市女谷(おなだに)の綾子舞(あやこまい)、長岡(ながおか)市、魚沼(うおぬま)市、小千谷市の牛の角(つの)突きの習俗、糸魚川市根知山寺(ねちやまでら)の延年(えんねん)、同市能生地区の舞楽、魚沼市の「大の阪(だいのさか)」、佐渡の文弥(ぶんや)人形、のろま人形芝居、車田植、糸魚川市青海地区の竹のからかい、村上市の山北(さんぼく)のボタモチ祭りが重要無形民俗文化財となっている。祭事では、浦佐毘沙門(うらさびしゃもん)堂の押合祭(おしあいまつり)や糸魚川市のけんか祭、佐渡相川の鉱山祭などが全国的に有名である。また、端午の節供に揚げられる白根・見附の大凧(おおだこ)合戦や、8月の新潟祭・長岡祭の前夜祭に行われる民謡流しなども郷土的色彩の濃い行事で、とくに長岡の大花火大会に打ち上げられる全国一の四尺玉や大スターマインは名物である。
史跡・旧跡としては、十日町市の笹山遺跡出土品が1999年(平成11)新潟県初の国宝に指定されたほか、高田の春日山城跡(国指定史跡)、新発田城の表門や旧二の丸隅櫓(すみやぐら)(国指定重要文化財)、佐渡の真野(まの)にある国府・国分寺跡(国指定史跡)、順徳(じゅんとく)上皇火葬塚の真野御陵、小木の蓮華峰(れんげぶ)寺(金堂、弘法(こうぼう)堂、骨堂が国指定重要文化財)、新穂の塚原(つかはら)山根本(こんぽん)寺の日蓮(にちれん)遺跡などが有名である。ほかに大地主王国のおもかげを残す関川村の渡辺家住宅、新潟市南区味方(あじかた)の旧笹川家住宅、魚沼市の旧目黒家住宅などが国の重要文化財指定建築物として昔のままの姿で保存されている。
[山崎久雄]
親鸞上人(しんらんしょうにん)は越後に流罪になって、8年間行脚(あんぎゃ)して里人を教え導いたので越路(こしじ)の伝説が多い。阿賀野(あがの)市には都婆の松(とばのまつ)、梅護(ばいご)寺の八房梅(やつふさうめ)と数珠掛(じゅずかけ)桜、孝順(こうじゅん)寺の三度栗(ぐり)の伝説があり、ほかには新潟市中央区鳥屋野(とやの)西方寺の逆竹(さかさだけ)などがある。良寛の生家跡に良寛堂が建っているが、周辺に多くの伝説がある。近くの妙法寺に日蓮(にちれん)ゆかりの妙法の石がある。豪族の屋敷跡と伝える長岡市寺泊(てらどまり)の聚感園(しゅかんえん)の井戸は、もと良水が湧(わ)き茶席に使用されたが、弁慶手掘りの井戸と伝えている。三条市笠堀(かさぼり)にある大蛇ヶ淵(ふち)に五十嵐小文治(いがらしこぶんじ)という勇士誕生の伝説がある。小文治は大蛇ヶ淵の主(ぬし)の子との伝承がある。西蒲原郡弥彦山(やひこさん)は農耕・漁業の神、弥彦(いやひこ)神社という古社が祀(まつ)られている。近くの宝光(ほうこう)院に安置する醜悪な女人像は鬼婆(おにばば)伝説の弥三郎婆(やさぶろうばば)で、弥彦山を舞台に活躍したという。本堂の裏にそびえる巨杉(おおすぎ)は婆杉とよばれているが、弥三郎婆の死体をかけた木と伝えている。新潟市西蒲(にしかん)区岩室温泉(いわむろおんせん)は大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の出生地といわれていて、村の川にすむトチという魚を妊婦が食べると、男の子は盗賊、女の子は淫婦(いんぷ)になると伝えている。いまも童子屋敷、童子田(だ)などの地名が残っている。新潟市中央区の蒲原神社は稲作の豊凶を占う神として有名であるが、この神社は別の名を六郎さまといい、土瀬(どせの)長者の没落伝説をもっている。近くの法光院に長者の供養塔と伝える五輪塔がある。東蒲原郡阿賀町三川(みかわ)地区の阿賀野川と白崎川との合流点にある御前ヶ淵(ごぜんがぶち)は、昔、平家落人(おちゅうど)が捕らえられて殺された所。遅れてきた女たちがこの川にみな入水(じゅすい)したという悲話を伝えている。同町鹿瀬(かのせ)にある麒麟山温泉(きりんざんおんせん)にお鶴(つる)ヶ沼の名をもつ小沼がある。この沼は小姓と村娘との悲恋の伝説をもっている。山形県と大里(おおさと)峠を境に接している岩船郡関川(せきかわ)村に大蔵神社(おおくらじんじゃ)、一名を座頭(ざとう)の宮がある。蛇喰(じゃばみ)集落の女が大蛇のみそ漬けを食って蛇体となり大里峠に住み着いて害をなした。それを退治して死んだ旅の琵琶法師(びわほうし)蔵の市(くらのいち)を神に祀ったという。蔵の市の琵琶は同社の宝物になっている。日本海に注ぐ三面(みおもて)川上流に平家村があった。川下に流れてきた香箱で発見されたという秘境で、奥三面集落はダム建設により水没した。この地に大納言(だいなごん)平頼盛(よりもり)、水草局(みずぐさのつぼね)が側近を連れて隠れ住んだと伝えている。佐渡は流人島で、順徳(じゅんとく)上皇、日蓮上人、能の世阿弥(ぜあみ)をはじめ多くの流人が配所の月を見て涙した地である。上皇と里の娘お花との恋を物語るお花屋敷の碑が、佐渡市金井の熊野(くまの)社境内に建っている。近くに上皇の黒木御所(くろきのごしょ)がある。上皇が愛(め)でた石抱え梅(いしかかえうめ)・苔梅(こけうめ)・八つ房梅(ふさのうめ)などが星霜を経たいまも花を咲かせる。日蓮ゆかりの伝説は上皇に次いで多い。金井の御井戸庵(おいどあん)は、上人の霊験(れいげん)の井戸で、良水が湧いている。世阿弥の配所は正法(しょうぼう)寺で、黒木御所に近い所にある。72歳の老齢で罪のない身で配所の月を見るに至った。正法寺の寺宝に、世阿弥伝説の雨乞(あまご)いの面(おもて)がある。
また、説経節『阿新丸(くまわかまる)』で知られている日野資朝(ひのすけとも)が牢内(ろうない)で書いたと伝える写経(国指定重要文化財)が、佐渡市妙宣寺の寺宝になっており、その墓は同寺境内にある。阿新丸仇討(あだうち)の助人(すけっと)、山伏大膳坊(やまぶしだいぜんぼう)の屋敷跡は同市野浦(のうら)で、腰掛け石がある。この石を汚すと祟(たた)りがあるという。伝説音羽(おとわ)ヶ池で有名な長福(ちょうふく)寺は越(こし)ノ松原の近くで、池は寺の後方の大佐渡スカイラインの大平(おおひら)峠付近である。少女音羽の形見の品は同寺に保存されている。相川金山の下相川の伝説、炭焼き藤五郎(とうごろう)は、戸川神社の祭神で鉱山の守護神になっている。佐渡には狢(むじな)が多かったとみえて伝説が根づいている。江戸時代は金山の冶金(やきん)用のふいごの材料に用いるために狢の繁殖を計ったという。狢伝説の大親分は相川の二つ岩団三郎で、その活躍ぶりは『怪談藻塩草(もしおぐさ)』に詳しい。説経浄瑠璃(じょうるり)の語物として近世以前から世に行われた『山荘太夫(さんしょうだゆう)』は、貴種流離譚(たん)の要素をもつが、佐渡は安寿姫(あんじゅひめ)と厨子王(ずしおう)の母が鳥追う下婢(かひ)にされ盲目となった地である。片辺鹿野浦(かたべかのうら)には母を尋ねてきて死んだ安寿姫の塚と祠(ほこら)がある。日に三度毒水が流れたと伝える中ノ川は、いまは細い水が河原の石を縫う小川にすぎない。木下順二の民話劇『夕鶴(ゆうづる)』は佐渡の民話「鶴女房」に取材したもので、そのふるさとは鹿野浦の浜続きの藻浦崎(もうらざき)の集落である。
[武田静澄]
『新潟県史研究会編『新潟県百年史』上下(1968~1969・野島出版)』▽『井上鋭夫著『新潟県の歴史』(1970・山川出版社)』▽『『新潟県百年のあゆみ』(1971・新潟県)』▽『新潟県教育委員会編『新潟県の文化財1、2』(1971・新潟県文化財保護連盟、1978・新潟県教育委員会)』▽『日本地誌研究所編『日本地誌 第9巻(中部地方総論・新潟県)』(1972・二宮書店)』▽『小山直嗣著『越佐の伝説』『続・越佐の伝説』(1976・野島出版)』▽『新潟日報事業社編・刊『新潟県大百科事典』上下・別巻(1977)』▽『『新潟県史』全37冊(通史編9巻・資料編24巻・別編3巻・『新潟県のあゆみ(新潟県史概説)』(1980~1990・新潟県)』▽『茅原一也他編『新潟県風土記』全3巻(1980・考古堂書店)』▽『林正巳・山崎久雄・磯部利貞監修『新潟県の地理散歩 上越・中越・下越篇』全3巻(1980~1981・野島出版)』▽『植村元覚・中藤康俊著『産業地域の形成と変動』(1985・大明堂)』▽『『日本歴史地名大系15 新潟県の地名』(1986・平凡社)』▽『山本修之助編著『佐渡の伝説』(1986・佐渡郷土文化の会)』▽『井手策夫他編『地方工業地域の展開』(1986・大明堂)』▽『新潟市編『新潟市史』全2冊(1988・国書刊行会)』▽『新潟日報事業社出版部編・刊『新潟県の昭和史』(1989・新潟日報事業社)』▽『小村弌・鈴木郁夫監修『新潟県風土記』(1990・旺文社)』▽『山田安彦・山崎謹哉編『歴史のふるい都市群5 北陸と信州の都市』(1993・大明堂)』▽『新潟大学医学部創立七十五周年記念事業期成会・新潟大学医学部学士会編『新潟大学医学部七十五年史』上下(1994・新潟大学医学部創立七十五周年記念事業期成会)』▽『浮田典良・中村和郎・高橋伸夫監修『日本地名大百科』(1996・小学館)』▽『水澤謙一編『新版 日本の民話3 越後の民話 第一集』(2015・未来社)』▽『水澤謙一編『新版 日本の民話70 越後の民話 第二集』(2017・未来社)』▽『新潟県総務部統計課・新潟県統計協会編『新潟県勢要覧』各年版(新潟県総務部統計課)』▽『新潟県総務管理部統計課編・刊『新潟県統計年鑑』各年版』
新潟県の中央部、日本海に面して位置し、信濃(しなの)川と阿賀野(あがの)川が合流する河口に発達した港湾商業都市。県庁所在地。
1889年(明治22)人口4万4000人で市制施行。1914年(大正3)沼垂(ぬったり)町合併。1943年(昭和18)大形、石山、鳥屋野(とやの)村編入。1954年松ヶ崎浜(まつがさきはま)、南浜、濁川(にごりかわ)、坂井輪(さかいわ)村編入。1957年大江山、曽野木(そのぎ)、両川(りょうかわ)村編入。1960年内野(うちの)町、1961年赤塚、中野小屋村編入。1995年(平成7)12月には1994年の地方自治法の改正による人口30万人以上、面積100平方キロメートル以上などの都市要件に該当し、1996年(平成8)政令指定都市に準じる「中核市」に指定された。岐阜や富山などとともに第一次指定を受けた全国12都市の一つであった。2001年黒埼町(くろさきまち)編入。2005年に、新津市(にいつし)、白根市(しろねし)、豊栄市(とよさかし)、小須戸町(こすどまち)、横越町(よこごしまち)、亀田町(かめだまち)、岩室村(いわむろむら)、西川町(にしかわまち)、味方村(あじかたむら)、潟東村(かたひがしむら)、月潟村(つきがたむら)、中之口村(なかのくちむら)を編入、同年中に巻(まき)町を編入。2007年、政令指定都市に移行、北、東(ひがし)、中央、江南(こうなん)、秋葉(あきは)、南、西、西蒲(にしかん)の8区がつくられた。日本海側では本州最大、福岡市に次ぐ高層ビルの集中する中心街を形成している。古くは古志(こし)の国の北端にあたり、旧佐渡国(さどのくに)(佐渡島)と旧越後国(えちごのくに)で構成される。信濃川は全国一の長流であり、阿賀野川は10番目の長さでともに水量豊富であり、洪水の被害もあったが、広い沖積平野と豊かな物産に恵まれて、発展の基礎を得た。とくに西廻(にしまわり)航路が開発されてから越後の内陸および福島県の米や物資の集散地として発達した。北陸、中部、関東、東北の各経済社会圏と諸交通路で結ばれ、環日本海国際社会の結節点として将来の発展が期待されている。面積726.27平方キロメートル。人口78万9275(2020)。
[高津斌彰]
気温・降水量・日照などの特徴から北陸山陰型気候区に属する。平均気温が各月とも2℃以上で最寒月の1月が2.1℃で、最暖月の8月が26.2℃である。年間降雨量は全国の平均と同様1700~1800ミリメートルであるが、最多降水月が11、12、1月の冬季にあることが特徴である。しかし平滑な地形と風速・風向などの影響もあって、県内の上越(じょうえつ)市や内陸の長岡(ながおか)市とは異なり降雪量も根雪も少ない。したがって特別の融雪施設はなく、除雪トラックや除雪グレーダー(雪かき車)だけである。冬は曇天が多いことから、夜間は熱放散が少なく水道管が凍りつくことはまれである。年間日照時間は1712時間で約40%と少ない。12月は72.8時間、1月34.1時間、2月が72.8時間である。降雪日数は12月が12日間、1月が25日間、2月が19日間、3月が12日間ほどである。
地形は砂丘と砂丘間低地、自然堤防、旧河川敷からなっている。砂丘列は南から3列が認められ、亀田砂丘列、鳥屋野(とやの)砂丘列、新潟砂丘列とよばれている。とくに砂丘は基盤岩の上にのったものではなく、完新世の約1万年の間に1500メートルも堆積(たいせき)したものである。この沖積層の基底から地下120メートルの間に、最終氷期の扇状地性堆積物からなるG1層からG7層まで厚く砂礫(されき)層が積もっていることが明らかにされている。比較的浅層には水溶性ガスがあり、第二次世界大戦前は日本石油、戦後は新潟交通、日本瓦斯(がす)化学によって資源として開発されたが、その後の地盤沈下の激化によって、ゼロメートル地帯が拡大したことから、くみ上げ規制されている。新潟の生活の主舞台は砂丘や自然堤防上から始まり、東西方向に長く集落を形成したが、1952年ごろからの高度経済成長とともに、南部および東西の砂丘間低地への住宅の無秩序なスプロール化が広範に進展した。東西新潟を二分する信濃川河口には、流路と河口が比較的早く固定したことから、みごとなカスプ(尖角岬(せんかくみさき))を形成したが、遅くまで一定の河口をもたなかった阿賀野川は平滑な河口である。江戸時代末期の新発田(しばた)藩による沼垂(ぬったり)湊の保全と流路確保のための人工的な掘削を契機として現在の河口が生まれた。したがって市域全体に鳥屋野潟のような沼沢地や低湿地が広がり、江戸時代には新潟湊(みなと)と沼垂湊との流路の変化によって流された港町の復興訴訟などにみるごとく、河川流路が変わったり、洪水にみまわれたりすることが多かった。
[高津斌彰]
大江山・赤塚地区には縄文遺跡、西区中野小屋(なかのごや)地区の曽和(そわ)の六地山(ろくじやま)遺跡には弥生(やよい)時代後期(3世紀)、新潟砂丘列には古墳時代の製塩遺跡や鎌倉期の遺跡が発見されており、人間の営みは十分に古くから展開されている。平安時代に描かれた寛治(かんじ)・康平(こうへい)絵図のごとく越後平野を大きな内海とみることは誤りである。7世紀なかばの647年(大化3)には渟足柵(ぬたりのき)が蝦夷(えぞ)に備えて設けられ、信濃川右岸の沼垂町の起源は古い。本格的な発展は長岡藩の外港として信濃川左岸に新潟町が新たに形成された17世紀の初期以降からである。長岡藩主堀直竒(なおより)の町と港整備による都市計画の実施と「諸役用捨(しょえきようしゃ)」をはじめとする商人優遇策によって、全国の商人が集められて町が発展した。続いて河村瑞賢(ずいけん)による西廻航路の主要港に整備されると、さらに急発展して、17世紀末の1697年(元禄10)には、年間入港船3500艘(そう)で、出入りする貨物の総額は46万両に上り、1710年(宝永7)にはさらに増えて56万両を記録している。幕末に近い1843年(天保14)には、現在の密輸や脱税にあたる抜け荷事件をきっかけとして、新潟湊は幕府が直轄支配し港湾利益を直接に獲得することになった。1858年(安政5)には安政の開港5港の一つに含まれたが、近代新潟発展の契機は新しい築港、鉄道、港湾、道路の整備が進んだ明治末~昭和初期であり、第二次世界大戦前は北洋船および大陸との日本海航路、戦後は低廉な電気と石油・天然ガスを原料とする鉄・アルミ・石油・化学・肥料などの臨海重化学工業地帯の集積が進んだ。1963年(昭和38)の新産業都市指定も受けたが、産業構造の大きな変化もあって、東工業港建設の順調な発展が進まず、その後の工業化は流通業・倉庫業・運輸業・建設業・サービス業、エネルギー基地の立地および一部の機械工業立地などへ大きくさま変わりすることになった。
1897年(明治30)5万1000人、1907年6万1000人、1914年(大正3)9万1000人、1925年10万9000人、1935年(昭和10)13万4000人、1945年17万4000人、1955年26万1000人、1965年35万6000人、1975年42万3000人、1985年47万6000人、1995年(平成7)49万5000人、2000年50万1000人、2005年(平成17)81万4000人と人口は増加し続けてきたが、その後は2010年81万2000人、2015年81万人と減少傾向にある。第二次世界大戦前の人口増加率は低かったが、とくに戦後の復興期と昭和30年代の高度経済成長期に人口増がみられた。昭和40年代からは増加率が減少してきており、2010年調査分より人口は減少に転じた。1975年以降郊外への人口や企業の移転がみられて、市内の人口増加より郊外化とよばれる周辺都市人口の増加が多くなっている。
[高津斌彰]
上越新幹線(じょうえつしんかんせん)や自動車道が急速に整備されて、新潟の社会地理的条件が変化し、経済地理的距離の短縮やイメージの向上によって、行き止まり終点の性格から地理的結節点機能をもつなど社会的意味合いが大きく変わっている。新幹線は1982年(昭和57)新潟―大宮間が開通、1985年上野、1991年(平成3)東京乗り入れが完成し、新潟―東京間が2時間で結ばれた。自動車道は関越自動車道(かんえつじどうしゃどう)が1985年、北陸自動車道が1988年、日本列島を横断する新潟―いわき間の磐越自動車道(ばんえつじどうしゃどう)が1997年に開通した。現在は新潟―秋田―青森間の日本海東北自動車道が建設中で、新潟県内では新潟中央ジャンクションから朝日まほろばインターチェンジ(村上市)までが開通している。市内の道路整備も進められており、東・西の新潟市街地間を結ぶ橋の少なかった信濃川の河口部には「新潟みなとトンネル」全4車線が2005年に開通した。延長が3260メートルの壮大な沈埋トンネルである。河口両岸にヨットハーバーなどポートコリドール(回廊状港湾施設)が整備される。万代(ばんだい)橋下流には「柳都(りゅうと)大橋」が2002年に完成し、信濃川左右両岸には都市再整備も進行している。これらの事業が完成すると、商業港湾都市新潟にまったく新しい玄関が整備されて、21世紀型都市景観が現れる。
新潟空港は「地域拠点空港」に指定され滑走路が2500メートルに拡大された。1973年(昭和48)ハバロフスク便の開設以来、ソウル、台北、上海(シャンハイ)、ハルピンなどへの定期便が運航している。国内便では札幌(新千歳)、成田、名古屋(中部国際・小牧)、大阪(伊丹・関西国際)、神戸、福岡、那覇へ定期便がある。新潟港は1967年に特定重要港湾の指定を受け(2011年、港湾法改正により、国際拠点港湾に変更)、1995年には中核国際港湾にも指定され、空港とともに国際交流拠点性を高めている。航路にはコンテナー航路を中心として、釜山(ふざん/プサン)航路、大連(だいれん/ターリエン)航路をはじめ、対岸貿易と東南アジアへの結節航路として、「外国貿易拠点港」整備が進んでいる。東港区では日本海沿岸地域における国際物流拠点として、コンテナターミナルなどの施設が整備され、西港区では1993年に中央地区に国際旅客ターミナルビルが完成、2003年には万代島地区に国際交流施設「朱鷺(とき)メッセ」がオープンした。
[高津斌彰]
河口港商都として発展してきた新潟市は商業・サービス産業がますます盛んになっている。国際化の進展と産業構造の高度化、および各種交通条件の整備もようやく進んで地域拠点性がいよいよ強化され、第三次産業へシフトし、管理機能や結節機能が高まるなど都市構造の高度化が進んだ。就業者数は1995年(平成7)で25万1062人、1985年(昭和60)から2万7362人約11%増となっている。第一次産業が3.1%、第二次産業が24.5%、第三次産業が72.4%で、第三次産業の比率がきわめて高い。そのうち29.1%が卸・小売り産業部門、25.8%がサービス産業である。日本海側では商業サービス産業がよく発達している。市民所得ではこの特徴はもっと鮮明となる。1994年度のそれは1兆6650億円で、県民所得の23.4%を占め、第2位長岡市8.3%の3倍である。産業別所得構成は第一次産業は1.0%にすぎず、第二次産業でも21.8%、その大部分は第三次産業で80.7%を占めて、商業都市の特徴をはっきり表している。
もともと新潟の工業発展の基礎は、明治後期から大正・昭和初期の戦前まで、鉄道・港湾・道路・工業用区画整理地など近代産業基盤の整備にあった。越後の各第三紀丘陵の油田を背景に発展してきた精油、硫酸→化学肥料、探鉱→機械工業、低廉な電気による電気鉄(フェロアロイ)、カーバイド、さらにパルプ・製紙工業など、近代工業が立地し、発展が始まった。戦中・戦後はこれにアルミ工業や新潟ガス田のガス化学工業が加わり、山の下地区に重化学工業集積も進んだ。1963年(昭和38)には「新産業都市」指定も得て、市の東端の広大な砂丘地に東港臨海工業地帯造成計画が進められた。おりから高度経済成長後の厳しい産業構造変動と経営合理化、地価急騰に遭遇したことと、適切な対応に欠けたことから、土地収用交渉は難航に難航を重ねることになった。こうして用地確保が不完全となったこと、不況による企業の進出見合わせが続出したことから、土地売買が滞り、資金回収に苦労して県財政に赤字負担をもたらした。また無公害企業誘致が約束されていたはずの工場からフッ素ガスをはじめとする公害も発生した。「辛酸都市」なる陰口もきかれてその去就が心配されていた。1980年代後半のバブル経済期から誘致業種が流通、運輸、レジャー、サービス産業や先端産業まで新しく拡大されて、用地は完売でき、現在各種企業の立地展開が進んでいる。高度経済成長期のなかば以来、市内の地代急騰から、製造・加工工場の多くが軽い地代負担と低い課税地を求めて市外に逃げ出したこともあって、第三次産業中心の商業管理機能都市に都市の性格が移ってきている。それでも工業出荷額は1996年度で6671億円で県内随一である。その筆頭は1050億円の石油製品で15.8%、次いで食料品14.2%、金属製品11.8%、パルプ・紙製品10.6%、化学製品9.3%など資源型産業が生産額の上位を占める。機械関係工業の立地展開は薄く、一般機械は580億円で8.7%、輸送用機械は445億円で6.7%、電気機械193億円などとまことに低い構成であり、今後高付加価値産業の展開が期待されよう。農業従事者数や農業所得額は極端に低いが、砂丘地には市民に親しまれるスイカ、ダイコン、各種蔬菜(そさい)、花卉(かき)栽培がみられ、漁業ではイカ、サバ、アジ、カレイ、エビが水揚げされる。
[高津斌彰]
新潟市内には大きな川や低湿な潟(かた)が多く、昔は堀が重要な交通路であって、橋が多かったことから、「水の都」とか「八千八川(はっせんやかわ)」とか表現されてきた。与謝野寛(ひろし)(鉄幹)の「橋あまた柳の中にかくされて水ある街の夕月夜かな」は明治期の港町を、有島武郎(たけお)の「さみだれの淡き晴れ間の夕空をさながらひたす信濃川の水」は築港整備と近代工業の勃興(ぼっこう)、自動車の登場による大正期の新興工都新潟を歌っている。いまは河口港には多くのレジャー用のヨットが係留され、万代橋近くには屋形船も復活されている。日米通商条約によって開かれた五つの港に含まれて、1869年(明治2)に建てられた旧新潟税関庁舎は石造りの倉庫や玄関に石造りのアーチ型門をもつ擬洋風建築であり、国の重要文化財に指定され、いまは新潟市歴史博物館にある。阿賀野川から川船で新潟に入ってきたイギリスの女流旅行家、のちに王立地理学会員のイサベラ・バードが賞賛した新潟の下町は、まさに新潟文化の産屋(うぶや)であった。舟運にぎやかな堀と、堀に向かって狭い小路を挟みながら規則的に並ぶ切り妻屋根のつつましやかな美しさ、堀に沿って走る白い砂敷きの清潔な道はいまはほとんどみつけることがむずかしくなっている。下町に残る新潟子のしたたかな生活の仕方はいまもあちこちの小路の奥に色濃く残っている。そのバイタリティこそが現代の生き生きした商業都市新潟の磐石(ばんじゃく)の基盤を支えている。東北三大祭り(青森のねぶた、秋田の竿灯(かんとう)、仙台の七夕(たなばた))に次ぐ「新潟祭り」は、住吉様をはじめ東西新潟の祭りを一つにまとめたもので、毎年8月上旬に催される。1万発以上の花火が一夕(いっせき)で消費され、南東北の大規模な祭りの一つとなっている。新潟にはいつのころからか「杉の木と男の子は育たない」という諺(ことわざ)があるという。確かに新潟では女性の存在が大きい。しかし、破天荒な生き方とダダイズムなる新しい作風をもって文壇に飛び込み、飾るところがなく、自らのすべてをもって人生に処して、国民の心をつかんだ坂口安吾(さかぐちあんご)も新潟の生まれである。多くの書家に親しまれる歌人の会津八一(あいづやいち)も新潟の生まれであり、記念館は西海岸公園近くに建つ。江戸の後期に医家に生まれて書家文人画家として名をなした長井雲坪(ながいうんぺい)(1833―1899)は沼垂の生まれである。
1968年(昭和43)には「音楽とスポーツ都市」宣言をしている。1931年創立の「新潟交響楽団」は日本でも屈指の歴史と伝統をもつアマチュアのオーケストラである。1969年にはベートーベンの「第九交響曲」県内初演を果たして、定期演奏会は2017年で第100回を数えた。合唱団には箕輪久夫(みのわひさお)の指揮する「レディスクワイアJUNE」など多くを数える。1989年には市制施行100周年を記念して市民ミュージカル「アジブの扉」も演じられている。毎年末に有力地方銀行によって開催される“ベートーベンの第九交響曲”「だいしライフアップコンサート」は、若者から高齢者まで広く市民に楽しまれている。夏には青山海岸の「日本海夕日コンサート」もあり、各種の音楽会・演奏会が広く親しまれている。スポーツでは2002年の第17回ワールドカップ(日韓共催)サッカーの開催地の一つであり、「アルビレックス新潟」はJリーグで活躍している。市の中心部信濃川の左岸の白山地区には、近年相次いで取り壊されてしまったが、テニスコート、公会堂、県立図書館があって長らく市民に親しまれてきた。残された県民会館や体育館、音楽文化会館の近隣には、新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)や空中庭園が新設され、1998年に一帯は白山公園区域に加えられた。白山公園は1873年に造成された日本で最初の都市公園の一つで、2018年には国の名勝に指定されている。佐渡汽船発着場と旧西港地区には、都心部再開発の一環としてコンベンション(会議)機能中心の万代島再開発が進み、新幹線の敷設(ふせつ)以来発展する駅南地区には、オフィス・サービス産業施設が拡大している。こうした市街地拡大による環境破壊を防ぐ意味から、鳥屋野潟周辺には県立自然科学館、県立図書館、自然公園などが整備された。市の西端部の自然豊かな佐潟(さかた)は1996年にラムサール条約登録湿地に認定された。従来は工業化と近代化に忙しく、緑地や公園・水辺の維持や保全に消極的であった新潟市にも、市民や団体の努力を中心にした良好な環境維持と積極的な緑地づくりが進められている。
情報化社会と国際化の進展に伴って、テレトピア、郵トピアモデル都市、国際コンベンションシティ指定都市でもある。環日本海太平洋諸国を一つにした環日本海新潟駅伝(2004年が最後の大会)など各種の国際スポーツ・文化・学術交流や、環日本海シンポジウムなども開催され、1980年代後半から国際交流はいっそう盛んになっている。
[高津斌彰]
『『新潟県百年史』上・下2冊(1969・新潟県史研究会)』▽『『新潟県百年のあゆみ』(1971・新潟県)』▽『『日本地誌』9巻(1972・二宮書店)』▽『『新潟県大百科事典』上・中・下(1977・新潟日報事業社)』▽『是沢他編『新潟県風土記』(1979・暁和出版/考古堂)』▽『『新潟県史』(1984・新潟県)』▽『植村元覚・中藤康俊著『産業地域の形成と変動』(1985・大明堂)』▽『井手策夫他編『地方工業地域の展開』(1986・大明堂)』▽『『新潟県の昭和史』(1989・新潟日報事業社)』▽『『新潟市史』18冊(1990~1998・新潟市)』▽『『新潟県風土記』(1990・旺文社)』▽『山田安彦・山崎金哉著『歴史のふるい都市群5』(1993・大明堂)』▽『『日本地名大百科』(1996・小学館)』▽『中村義隆・石黒正英編著『ふるさと今昔 新潟市パノラマ館』(1999・郷土出版社)』▽『足立豊・五百川清・五十嵐公・石川新一郎・大塚哲他著『新・にいがた歴史紀行1 新・新潟市』(2004・新潟日報事業社)』▽『『新潟県勢要覧』各年版(新潟県)』▽『『新潟県統計年鑑』各年版(新潟県)』
新潟県中部の市で,県庁所在都市。旧新潟市が2001年1月黒埼(くろさき)町を,05年3月白根(しろね),豊栄(とよさか),新津(にいつ)の3市,亀田(かめだ),小須戸(こすど),西川(にしかわ),横越(よこごし)の4町,味方(あじかた),岩室(いわむろ),潟東(かたひがし),月潟(つきがた),中之口(なかのくち)の5村を,さらに05年10月巻(まき)町を編入して成立した。07年4月政令指定都市に移行,北,東,南,西,中央,江南,秋葉(あきは),西蒲(にしかん)の8区を置いた。人口81万1901(2010)。
新潟市中部の旧村。旧西蒲原(にしかんばら)郡所属。人口4805(2000)。越後平野中部,信濃川派川の中ノ口川西岸に位置する。沖積地からなり,自然堤防上に集落が発達している。中心の味方は対岸の旧白根市と並ぶ中ノ口川沿いの交通の要衝で,旧新潟市へ通じる新潟交通線の白根駅も村内にある。西部の低湿地は第2次世界大戦後,県営圃場整備の第1号として区画整理され,暗渠排水によって乾田化された。典型的な水田単作地帯にあり,1戸平均耕地面積は県下一で,大型機械化農業の先進地域となっている。旧新潟市に近いことから近年は野菜のハウス栽培が盛んで,ベッドタウン化も進んでおり,人口も増加している。味方の笹川家住宅は1826年(文政9)に建築された越後の代表的庄屋屋敷で重要文化財となっている。西白根地区では毎年6月に対岸の旧白根市との間で300年の伝統をもつ大凧合戦が行われる。
新潟市西端の旧村。旧西蒲原郡所属。人口1万0042(2000)。弥彦山北麓にあり,西は日本海に面する。東部は信濃川派川の西川沿いの低地,西部は弥彦山地と狭い海岸低地からなる。中心集落はJR越後線岩室駅のある和納地区。農業と観光が産業の中心。岩室は近世,北陸街道の宿場町で,越後一宮の弥彦神社への参道にあたる。1713年(正徳3)には岩室温泉(含食塩土類硫化水素泉,27℃)が発見され,現在は国民温泉に指定されている。民謡《岩室甚句》でも有名。間瀬は海岸美にすぐれ,県天然記念物のまくら状溶岩があり,海水浴客も多い。1970年に弥彦山スカイライン(81年無料開放),75年には越後七浦シーサイドライン(90年無料開放)が開通し,佐渡弥彦国定公園の観光拠点となっている。
新潟市南西部の旧村。旧西蒲原郡所属。人口6454(2000)。越後平野中央部,信濃川派川の中ノ口川西岸の沖積地にあり自然堤防上に集落がある。1959年に旧鎧潟(よろいがた)の東に位置する大原村と四ッ合村が合体し,潟東村となる。近世までは御封印野と呼ばれた湿地で,宝暦年間(1751-64)以降開発された新田村である。洪水の常襲地域であったが,1818年(文政1)鎧潟の排水のために新川が開削され,1912年には改修が完成した。58-66年には国営事業として鎧潟300haの干拓が行われ,大型農業機械を導入し,穀倉地帯の中核となった。旧巻町との境に北陸自動車道の巻潟東インターチェンジがあり,金属加工業を中心に食品,機械工業が立地する。
新潟市北東部の旧町。旧中蒲原郡所属。人口3万2061(2000)。越後平野中部にあり,信濃川と阿賀野川にはさまれている。かつては亀田水郷と呼ばれる低湿地であった。現在のJR信越本線亀田駅周辺の中心地は,慶安年間(1648-52)に開拓され中谷内(なかやち)新田と呼ばれていたが,元禄年間(1688-1704)に新発田(しばた)藩が六斎市の設置を許可し,以後は近郷の商業・交通の中心として栄え,栗木川には河岸場もあった。1949年栗木川排水機場の完成とともに乾田化,耕地整理が進められ穀倉地帯に転じた。南部の茅野山は亀田梨の産地として知られる。近世中期から亀田縞と呼ばれる綿織物を産し,第2次世界大戦後は化繊織物への転換が進んだ。米菓を主とする食品工業も盛ん。旧新潟市に隣接するためベッドタウン化が進み,人口も増加している。日本海東北自動車道の新潟亀田インターチェンジがある。
新潟市北部の旧町。旧西蒲原郡所属。人口2万3605(1995)。越後平野中部の信濃川西岸にあり,中心地大野は中ノ口川との合流点にあたる古くからの河岸町で,近世中期以降は市場が栄え,近郷の農産物の集散地として発達した。かつては潟湖の多い低湿地で,洪水の常襲地帯であったが,近世末期に新川排水路が開削され,1922年には上流に大河津(おおこうづ)分水(新信濃川)が完成して乾田化が進み,越後平野の中核的穀倉地帯となった。さらに72年には新川大排水機場が完成した。旧新潟市に隣接する近郊農村として近年は野菜・花卉栽培が盛ん。また同市のベッドタウンとして住宅団地の造成も行われ,国道8号線沿いには流通産業などが立地する。人口も増加傾向にある。北陸自動車道の新潟西インターチェンジがあり,国道116号のバイパス,新潟西バイパスや国道8号線と結ばれる。山田には越後七不思議の一つで,親鸞伝説を伝える焼鮒の旧跡がある。
新潟市南東部の旧町。旧中蒲原郡所属。人口1万0454(2000)。越後平野の中部にあり,信濃川東岸の沖積地と東部の魚沼丘陵北端の丘陵からなる。中心地小須戸は信濃川の自然堤防上に位置し,近世は信濃川舟運の河岸町で,六斎市も立ち,中蒲原の交通・経済の要衝として栄えた。幕末ころからは小須戸木綿縞の機業地としても知られ,第2次世界大戦後はメリヤス工業に転換し,隣接の五泉市に次ぐメリヤス産地となった。低地部は近世に開発された新田地帯であり,盆栽の産地としても知られるが,近年はチューリップ,ヒヤシンスなどの球根栽培が盛んで,1972年には花木センター,93年には花ステーションが設置されている。茂林寺の木造地蔵菩薩半跏像は重要文化財に指定されている。JR信越本線が通る。
執筆者:佐藤 裕治
新潟市中南部の旧市。1959年市制。人口4万0012(2000)。旧新潟市の南に位置し,信濃川の下流とその分流中ノ口川に囲まれた南北に細長い輪中(わじゆう)をなす白根郷の大部分を占める。標高2m前後の低湿田地帯のため洪水に悩まされてきたが,1927年信濃川の大河津分水が完成し,耕地整理も行われて越後平野の先進的穀倉地帯となった。また旧新潟市の近郊農村として,果樹,野菜,花卉などの栽培も盛んで,近年は観光果樹園も人気を呼んでいる。中心の白根は近世には市場町としてにぎわい,中ノ口川舟運の河岸場(かしば)が置かれた。伝統的な仏壇・仏具製造が盛んで,ほかに電線,電球を産する。旧新潟市と旧月潟村を結ぶ新潟交通線(99年廃止)の電車は中ノ口川対岸(西岸)を通り,国道8号線が市域内を並走する。6月の上旬,中ノ口川をはさんで旧味方村との間に繰り広げられる白根大凧合戦は300年の伝統をもつ。
執筆者:磯部 利貞
新潟市南西部の旧村。旧西蒲原郡所属。人口3831(2000)。越後平野中央部,信濃川派川の中ノ口川西岸にあり,全域が沖積地で,自然堤防上に集落が発達する。中心集落の月潟では,近世三条の金物問屋の下請けとして始められた鍛冶工業が盛んで,越後鎌の主産地として知られるが,零細規模のものがほとんどである。蒲原穀倉地帯の中心にあり,米の反当り収量は県内有数である。自然堤防上では古くからナシの栽培が盛んで,大別当(おおべつとう)にある樹齢170年と伝えられる類産ナシは,ナシ栽培が導入された当時の古品種で,天然記念物に指定されている。越後獅子の名で知られ,農閑期の旅稼ぎでもあった角兵衛獅子発祥の地で,6月23~25日の月潟地蔵堂の祭礼には地元の保存会によって角兵衛獅子が奉納される。
執筆者:佐藤 裕治
新潟市北東端の旧市。1970年市制。人口4万8997(2000)。越後平野北部,阿賀野川下流右岸に位置する。かつて阿賀北郷と呼ばれた低湿地で,流入河川の排水が,北部の海岸砂丘と西部の阿賀野川の自然堤防に妨げられ,中央部に福島潟などがある。1730年(享保15)に新発田藩が低湿地の開発を目的に砂丘部に掘割り(松ヶ崎分水)を開削し,阿賀野川を日本海に放流して以来,開発が急速に進み,微高地に集落が発達した。中心市街の葛塚(くずづか)は,福島潟から流出する新井郷(にいごう)川の旧河岸場町で,舟運で新潟と結ばれた在郷市場町として発展し,野良着用木綿の葛塚縞や仏壇の産地として知られた。その後も土地改良が進み,1961年新潟市名目所(なめどころ)に排水機場が設けられて乾田化が完了した。また1956年国鉄(現JR)白新線が全通,70年には市域北部の砂丘地に新潟東港が開港し,市発展の基盤が確立した。また市の西部に早通(はやどおり)団地が造成(1969)されるなど旧新潟市のベッドタウン的性格が強まるとともに,砂丘地を利用した園芸農業も盛んになっている。市の北部には新潟競馬場があり,日本海東北自動車道の豊栄新潟東港インターチェンジもある。
執筆者:磯部 利貞
新潟市南西端の旧村。旧西蒲原郡所属。人口6483(2000)。越後平野中部,信濃川の分流中ノ口川西岸沖積地にある。1953-60年に圃場整備が行われ,大型機械化稲作農業の先進地域として知られる。東部の中ノ口川沿岸はブドウを中心とした果樹栽培が盛ん。隣接する燕市の洋食器工業の労働力供給地でもあり,村内にも下請工場が進出している。村内を北陸自動車道と上越新幹線が縦断し,巻潟東インターチェンジや燕三条駅にも近い。
執筆者:佐藤 裕治
新潟市北端,日本海に臨む旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口50万1431(2000)。人口は県全体の20%を占め,北陸地方第1の都市である。市域は信濃川および阿賀野川河口両岸の砂丘と三角州上に広がる。信濃川河口西岸に発達した旧市街地は,近世西廻海運の寄航地となり,越後米の移出港として栄えた新潟湊が起源をなす。1868年(明治1),当時日本海岸唯一の開港場となり,70年県庁所在地となった。1914年信濃川東岸の新発田(しばた)藩の港町であった沼垂(ぬつたり)町を編入し,大正末にはここに築港が完成して市の工業発展の基礎がつくられた。1964年新産業都市に指定されたが,同年6月の新潟地震では信濃川沿いの地区が軟弱地盤のため,大きな打撃をうけた。特定重要港湾に指定された新潟港は,信濃川河口の西港と阿賀野川北部砂丘上に69年開港した掘込み港の東港を合わせたもので,年間取扱量のうち7割が原油である。
工業は東工業港周辺および信濃川東岸の山の下,沼垂,大形などに集中し,石油,化学,機械,造船などを中心に年間約6544億円(1995)の出荷額があり,県全体の13%を占める。商業地区は信濃川西岸の古町周辺および西堀通り地下街が中心をなすが,新しい繁華街は東岸の新潟駅北側に1960年代以降発展した東大通り,万代(ばんだい)町付近で,高層ビル,バスターミナル,デパートが並ぶ。北陸自動車道(1978),上越新幹線(1982)が開通し,97年には磐越自動車道が福島県へ全通して活気を呈し,さらに日本海東北自動車道が北へ延びつつある。市内には新潟行政監察局(現,新潟行政評価事務所),北陸地方建設局(現,北陸地方整備局),日本海区水産研究所など国の出先機関や国立新潟大学をはじめとする教育研究機関が集まっている。阿賀野川河口西岸の新潟空港は札幌,名古屋,大阪,福岡,佐渡(2008年9月廃止)などへ定期便があり,ハバロフスク,イルクーツク,ソウル,ウラジオストクへ国際線も発着する。
執筆者:磯部 利貞
近世期越後国最大の港町。信濃川河口西岸に立地。1551年(天文20)ころに港町として成立し,地名の初出は68年(永禄11)。81年(天正9)新発田重家は上杉景勝に背くと新潟津を占拠し,沖の口運上を横領,信濃川中州に寄居を築き,町人を人質にとって備えを強化した。景勝も寄居を築き,86年奪回し景勝の領国確立戦の最後を飾った。以後,景勝支配下に94年(文禄3)豊臣秀吉の伏見築城手伝い普請兵粮米,伏見御用米の敦賀回送をつとめた。
町並みは古くは浜側にあり,1580年ころから信濃川の付き州を追って漸次今の古町中心街地域に移転(島村新潟),堀秀治(1598入封)・松平忠輝(1610入封)時代に発達をみた。1616年(元和2)堀直竒(なおより)が長岡藩主になると翌年片町(現,東堀通り),新町(現,本町通り),洲崎町(現,古町通り十三番町),材木町(現,上大川前通り一~四番町)の町建てを命じ,現古町通りには絹・布・小物・糸,新町には米・大豆・海産物,材木町には材木類の独占販売を許した。前年の沖の口船役,各種商工業税,世帯割税免除令と合わせ,近世新潟町発展の基礎が築かれた。18年牧野忠成が入封,前代の政策を踏襲し,他国他領商人の保護を命じた。33年(寛永10)には新潟は中・下越商業の中心となり戸口の増大をみた。藩は東堀,西堀と縦5条の堀を掘って町並みと舟運の便を整える工事を起こし,56年(明暦2)完了した。82年(天和2)には白山堀に年貢米収納蔵を建てさせ白山島の塩・海産物倉庫と合わせ,白山堀中心に新潟湊が繁栄した。97年(元禄10)新潟湊の取扱物資は年貢米34万俵余・10万8000両余,民間商品米穀83万俵余・17万2000両余,木綿・古手・塩・魚その他計17万8000両余,入港船舶3500艘,1710年(宝永7)には58万1000両余に及んだ。
30年(享保15)新発田藩の松ヶ崎掘割工事は港を浅くし入港船舶の減少と町の衰微をもたらした。68年(明和5)米価高騰と藩の御用金賦課が重なり,町民は騒動を起こし米問屋,廻船問屋,町役人を襲撃,涌井藤四郎を総代として町民の手による町政を行った。しかし70年には涌井が獄門のほか,それぞれ処罰された。しかしこの事件は本町表店商人の独占特権を新興商人と新興地域に解放させた。1828年(文政11),29年,30年(天保1)には米騒動が起きた。
43年6月幕府は新潟町を天領とし初代新潟奉行に川村修就(ながたか)を任命した。川村は湊口台場の築造,砂防林の植栽,消防施設の充実,学問の奨励など見るべき治績をあげた。43年5754軒,2万4431人。68年の戊辰戦争には奥羽越列藩同盟の拠点の一つとなり米沢藩が支配を預かった。そのため新政府軍の攻撃を受け火災が発生した。戦争終結後の同年11月修好通商条約による開港が実施された。
執筆者:小村 弌
新潟市東部の旧市。1951年市制。人口6万5860(2000)。魚沼丘陵の北端にあり,信濃・阿賀野両川とこれを結ぶ小阿賀野川に囲まれ,中央を能代(のうだい)川が北流している。中世,新津氏が居城を構え,近世は新発田藩領に属し,越後平野の農産物などを取引する市場町としてにぎわった。藩政時代に始まる石油の採掘は,明治末から大正初期が最盛期で月産1万klをこえたが,その後採油量は激減した。1914年羽越本線,岩越線(現,JR磐越西線)が開通し,新津駅は信越本線を加えた3路線の接続駅として重要性が高まった。しかし60年代に新津駅の業務部門が縮小され,現在は旧新潟市のベッドタウン的性格が強い。97年には磐越自動車道が全通し,発展が期待される。周辺部は越後平野の米作地域であり,南西部の小合(こあい)はサツキ,アザレア,チューリップの特産地。
執筆者:磯部 利貞
新潟市西部の旧町。旧西蒲原郡所属。人口1万2365(2000)。越後平野の中心にあり,中央を信濃川の派川西川が流れ,自然堤防上に集落が発達する。中心地曾根は近世に長岡藩曾根代官所が置かれた地で,西川舟運の河岸町,市場町として栄え,鎧潟周辺の西川米の集散地でもあった。稲作を主とする農業地域であるが,旧新潟市に隣接し,JR越後線,国道116号線が通じるため旧新潟市のベッドタウンとして急速に住宅地化が進んでいる。国道沿いを中心に工場進出も著しい。
新潟市西部の旧町で,日本海に臨む。旧西蒲原郡所属。人口2万9486(2000)。西川流域に位置し,西部に角田(かくだ)山(482m)がそびえる。中心地の巻は近世には長岡藩巻組代官所の所在地で,西川の舟運の河岸町として栄え,北陸街道の宿場でもあった。1871年(明治4)郡役所が置かれた。東部の鎧潟は1958年から国営の干拓事業が進められて水田地帯となり,県の農業教育センター(現,新潟県農業大学校)が置かれている。砂丘地帯は古くからタバコの産地であり,旧新潟市を市場とした野菜,果樹の栽培も盛んである。角田山麓には大規模な八珍柿の栽培団地が造成されている。角田浜など海岸の集落は越後の薬行商人の出身地として知られた。角田浜の妙光寺は1313年(正和2)開基で,日蓮は佐渡配流時にこの地に漂着したという。越後七浦海岸は佐渡弥彦米山国定公園に属し,海水浴客を集めている。金仙(こんせん)寺裏にある菖蒲塚(あやめづか)古墳(史)は日本海側最北端の前方後円墳。北陸自動車道の巻潟東インターチェンジがあり,越後七浦シーサイドライン(1990年無料開放),JR越後線,国道116号線が通じる。
新潟市北東部の旧町。旧中蒲原郡所属。人口1万0795(2000)。1996年町制。阿賀野川下流西岸の沖積地にあり,かつては横越島と呼ばれ,亀田水郷の中島であった。沢海(そうみ)は近世に新発田藩の支藩が置かれた地で,阿賀野川の河岸町としても栄えた。現在の中心集落横越は1875年完成の横雲橋(現,永久橋)のたもとにあり,交通の要衝として発達した。洪水の常襲地であったが,享保年間(1716-36)以降の阿賀野川改修工事の結果,蒲原穀倉地帯の中心となった。94年から農業構造改良事業が行われ,カントリーエレベーターの建設などがすすめられた。旧新潟市に接することから野菜栽培も盛んである。沢海にある北方文化博物館は蒲原地方の大地主であった伊藤氏の旧邸である。
執筆者:佐藤 裕治
基本情報
面積=1万2583.81km2(全国5位)
人口(2010)=237万4450人(全国14位)
人口密度(2010)=188.7人/km2(全国34位)
市町村(2011.10)=20市6町4村
県庁所在地=新潟市(人口=81万1901人)
県花=チューリップ
県木=ユキツバキ
県鳥=トキ
日本列島の中央部,日本海岸に位置する県。東西80km,南北210kmと南北に細長く,ほぼ紡錘状をなす。面積1万2582km2は全国第5位で,北陸地方の富山,石川,福井の3県分に相当する。
県域はかつての越後・佐渡両国全域にあたる。江戸時代末期,越後には高田藩,新発田(しばた)藩,長岡藩をはじめ,三根山,村上,村松,椎谷,与板,糸魚川(いといがわ),黒川,三日市の11藩が置かれていたほか,新潟をはじめとする天領,預地,旗本領飛地が入り組んでおり,金山のあった佐渡は天領であった。1868年(明治1)越後の旧天領を管轄するため新潟裁判所が置かれ,まもなく越後府,新潟府と改称して北部を,新設された柏崎県が南部を管轄した。一方,佐渡には佐渡裁判所が置かれたが,その後佐渡県となり,さらに新潟府に併合された。また糸魚川藩は清崎藩と改称した。翌69年別に越後府が再置されて柏崎県を併合し,新潟府は新潟県と改称して新潟周辺のみを管轄した。しかし同年越後府と新潟県が合併して水原(すいばら)県となると,佐渡県(1871年相川県と改称)を分離,続いて柏崎県(越後南部5郡管轄)をも分離した。70年水原県が廃されて新潟県が再置され,次いで柏崎県が長岡藩を併合し,三根山藩は峰岡藩と改称した。71年廃藩置県を経て,高田,清崎,与板,椎谷の諸県は柏崎県に,新発田,黒川,三日市,村松,峰岡,村上の諸県は新潟県に併合された。その後新潟県は73年柏崎県,76年相川県を併合,さらに86年福島県から東蒲原郡を編入し現在に至る。
先土器時代では,神山型彫刻器の標式遺跡である神山遺跡(中魚沼郡津南町),荒屋型彫刻器の標式遺跡である荒屋遺跡(長岡市),木の葉状尖頭器,有舌尖頭器の出土した中林遺跡(十日町市)などがある。また縄文時代草創期では,これと同様の石器群が片刃石斧や隆線文系土器群と伴出した田沢遺跡(十日町市)がある。室谷洞穴(東蒲原郡阿賀町)では最下層からいわゆる室谷第一群土器が発見され,関東以外で初めて撚糸文(よりいともん)系土器以前の土器群の存在が層位的に確認された。小瀬ヶ沢(こせがさわ)洞穴(阿賀町)でも多数の層位関係が認められ,両面加工の木の葉状石槍,有舌尖頭器,局部磨製石斧などが出土している。本ノ木(もとのき)遺跡(津南町)では細身で両面加工の石槍が約1000点も出土しているが,出土する本ノ木式土器との伴出関係については議論が分かれている。最近調査された壬(じん)遺跡(十日町市)では円孔文土器と名づけられたこの時期の特殊な土器が出土している。
縄文時代早期の卯ノ木(うのき)遺跡(津南町)は格子目文を主とする押型文土器と豊富な石器類を出土する。長者ヶ原遺跡(糸魚川市)は中期前半,長者ヶ原式土器の標式遺跡。縄文中期の遺跡も多く,馬高(うまだか)遺跡(長岡市)は〈火焔土器〉の名で知られる馬高式土器の,また栃倉(とちくら)遺跡(長岡市)は栃倉式土器の標式遺跡である。長方形大型住居址やクッキー状炭化物などの出土で注目される沖ノ原遺跡(津南町)もこの時期である。中期~晩期の寺地(てらじ)遺跡(糸魚川市)では日本最古の硬玉工房址や焼けた人骨のあるピット,巨大木柱などを含む特異な配石遺構が発見されている。三十稲場(さんじゆういなば)遺跡(長岡市)は縄文後期,三十稲場式の,三仏生(さぶしよう)遺跡(小千谷市)は同じく三仏生式のいずれも標式遺跡である。
弥生時代では中期の山草荷(やまそうか)遺跡(新発田市)や終末期の斐太(ひだ)遺跡群(新井市),終末期千種(ちぐさ)式の標式遺跡で,種々の木器,植物遺物,卜骨などを出した低湿地遺跡,千種遺跡(佐渡市)などが重要。
古墳時代では,山谷古墳(新潟市西蒲区)は県内唯一の前方後方墳であり,同時に県内最古(4世紀後半)の古墳。大和政権と結びついた西蒲原初代の首長墓と考えられ,また底部破砕の壺形土器列は埴輪列の祖形とみられる。その次の段階の前方後円墳として菖蒲塚(あやめづか)古墳(西蒲区)がある。内越遺跡(柏崎市)の古式土師器を出土する竪穴では,北海道の江別C1式土器が出土して注目される。
歴史時代では渟足柵(ぬたりのさく)址(新潟市中央区)があり,磐舟柵(いわふねのさく)址は村上市と考えられている。それぞれ647年(大化3),648年に置かれたもので,日本海沿岸での対蝦夷東北経営のための置柵として最初のものである。
→越後国 →佐渡国
執筆者:狐塚 裕子
県の東部は標高1000~2100mほどの朝日山地,越後山脈,三国山脈が山形県,福島県,群馬県との県境をなし,南西部は標高2000m以上の飛驒山脈北部と筑摩山地,ならびに親不知(おやしらず)の険が長野・富山両県との県境をなす。その前面には一段低い新津(にいつ)丘陵,魚沼丘陵,東頸城(ひがしくびき)丘陵などの第三紀丘陵が県境山地を雁行状に縁取り,十日町盆地,六日町盆地などを含んでいる。最低部は扇状地と三角州の広い越後平野,柏崎平野,高田平野が並び,盆地がそれに連なるため県内では南北の交流は容易である。前面の日本海には佐渡島,粟島が浮かんでいる。
新潟県は日本海側気候区に属しているが,県域が南北に長いための違い以上に,東西に並ぶ平野,丘陵,山地の間での違いが大きい。特に冬季,北西季節風の吹きつける県境山地や丘陵,盆地では豪雪地帯をなし,最深積雪が2m以上,根雪期間4ヵ月以上を示す地域が65%にも及ぶのに対し,佐渡島と越後平野では比較的雪が少ない。新潟県は北陸地方4県の中でも面積が広く,人口も多く,雪と人とのかかわりが大きいため,防雪林,市街地の雁木(がんぎ),消雪パイプ,除雪車などが早くから整備されてきた。一方,上越市高田は日本のスキーの発祥地であり,上越線沿線や妙高高原などには多くのスキー場が開設されている。また蓄積された山地の雪は貴重な水資源である。
標高2000mをこえる急峻な県境山地は美しい自然が保たれており,国立公園は山形・福島県境に磐梯朝日,福島・群馬県境に尾瀬,群馬・長野県境に上信越高原,長野・富山県境に中部山岳の四つが指定されている。国定公園は越後三山只見と佐渡弥彦米山の二つ,海中公園は佐渡島の海府,相川,小木の三つがあり,また13の県立自然公園もある。
県内には越後,高田,柏崎の3平野と佐渡島に国中平野があり,穀倉地帯をなしている。耕地の75%が標高50m以下に立地し,水田に好都合な自然条件を備えている。1996年の経営耕地面積19万haのうち88%が水田,9%が畑,2%が樹園地で,水稲の作付面積,収穫量とも北海道に次いで全国2位である。米が農産物出荷額の1位を占める農家は92%と多く,水稲単作農業地域を形成する。しかし販売農家数10.8万戸のうち専業農家は8.6%にすぎず,そのうち基幹男子農業従事者のいない農家が64.1%に及ぶ。全国2位の米作りについては耕地整備と機械化に負うところが大きい。近世までの越後平野は〈3年に1作〉といわれるほど,ひどい水害常襲地帯であった。当時この平野を流れる自然河川は海岸砂丘に阻まれて出口をもたないものが多く,信濃川と北部の荒川だけが直接日本海に注いでいた。耕地の拡張,新田集落の建設は,近世期を通じて沼沢,低湿地の干拓をすることによって遂行されてきた。平野部の治水は阿賀野川の松ヶ崎掘割(1730)のように,砂丘地に分水路を掘り,出口のない河川の水を日本海へ放流することから始まった。洪水の多かった信濃川では近世以来何度か分水路の計画が立てられたが,着工されたのは明治になってからで,大河津(おおこうづ)分水路(新信濃川)は1922年通水を開始した。これによって信濃川の水位が2m下がったため,以後内水排除,耕地整理が著しく進展した。長岡市福島江の大規模用水路や,新潟市の近代的な新川排水機場(1972完成)など,用・排水施設をもった水田の耕地整備率は約8割に達している。それと同時に水田耕作の機械化,省力化も進み,ヘリコプターによる薬剤散布や大規模な乾燥調製施設の共同使用なども行われ,効果を上げている。
水稲10a当りの収量は,大河津分水路が完成(1927)し,農林1号が登場した1931年以降,全国水準を上回るようになり,96年には537kgで全国6位である。コシヒカリ以下10品種が県の奨励品種に定められ,作付面積の8割以上が奨励品種で占められている。このような優良米産地のため自主流通米の割合がきわめて高い。畑作率は全国平均を下回るが,畑は砂丘地,自然堤防などに分布し,ブドウ,ナシ,モモなどの果樹や枝豆,スイカなどの野菜,チューリップ,クロッカスなどの花卉の栽培が発達している。
明治20年代から大正初期に,尼瀬,東山,新津の3油田の開発によって県の石油の産額は全国で首位に立ち,大正期から昭和30年代までは秋田県に追い越されたが,その後頸城,見附の新油田が発見され,天然ガス(新潟ガス田)も開発されて再び首位に戻った。開発地域は丘陵地から平野部に移り,さらに阿賀野川沖21kmの海底ガス油田に進展している。
新潟県には信濃川,阿賀野川,荒川,姫川,三面(みおもて)川をはじめ約850の河川があり,80余の水力発電所があって全国有数の水力発電県である。しかし現在は火力発電が卓越して,火力,水力の割合は6対4であり,さらに柏崎市では1985年,原子力発電所の1号機の運転が開始された。県の工業近代化の基礎は石油,天然ガス,水力電気と鉱物資源の石灰石の存在に負うところが大きい。製造品出荷額は4兆8806億円(1995)で,北陸4県では1位,中部地方では5位を占め,主要工業は出荷額では電気機器,食料品,金属,一般機械,化学の順となっている。伝統工業のうち現在でも上位を占める食料品工業は米菓,ビスケット,清酒,かまぼこなど,いずれも農畜産物,水産物を原料として成立したものである。繊維工業は十日町盆地,六日町盆地などの農家の冬季の副業として小千谷縮(おぢやちぢみ),塩沢紬(つむぎ)など麻,絹,綿織物から始まり,明治以降機械化が進み,第2次大戦後は合繊織物,ニット製品にも発展したもので,生産地は山麓機業地帯を形成している。金属工業は燕(つばめ),三条の野鍛冶から発展して企業化したもので,燕市ではスプーン,ナイフなどの洋食器,三条市では作業工具,利器工匠具(大工用刃物)を特産する。ほかにすぐれた伝統産業として加茂市の和だんす,木製家具,村上市の堆朱(ついしゆ)などがよく知られている。近代的工業のうち化学工業では,明治20年代の石油精製工業の立地に伴い,その過程で化学肥料工業が成立し,有機合成化学工業を発展させた。戦後は天然ガス利用の化学工業が,新潟市,中条町(現,胎内市),上越市などに展開した。機械工業は石油採掘機械の修理,部品製造より発展し,一般産業用機械,農業用機械,金属加工機械,建設機械など,新潟市,長岡市,柏崎市が主体である。工業の展開につれて電力指向型は衰退し,1970年代以降電気機械,精密機械,輸送機械工業が伸び,電気機械が出荷額で1位(1995)を占めるようになった。妙高市の旧新井市に松下電子工業が操業し,長岡市や佐渡島にも電子工業が立地するなど先端産業が発展してきている。
県内は地形,位置,開発の歴史,行政,生活圏などから下越(かえつ),中越,上越,佐渡の4地方に分けられる。
(1)下越地方 県の北部を占め,越後平野の大部分と海岸砂丘,東部の丘陵,県境の飯豊(いいで)山地などからなる。積雪は山地を除くと平野部は比較的少ない。県都新潟市を中心に三条,新発田,加茂,村上,燕,五泉の7市と周辺の町村が含まれる。面積は県の42%を占め,人口は石川県よりも多く,146.2万(1995)で,県の59%を占める。かつて水害常襲地帯であった越後平野は信濃川の大河津分水路など日本海への放流や阿賀野川などの河道変更,土地改良事業などで,県最大の穀倉地帯となった。また下越地方は明治中期以降本格的となった新潟油田開発の歴史では中心的役割を果たし,製油業,機械工業,ガス化学工業が盛んである。1964年新潟市ほか4市5町11村は新産業都市の指定をうけ,信濃川河口の新潟港は特定重要港湾に指定され,北東岸一帯は臨海工業地区となっている。中心の新潟市は上越新幹線,北陸自動車道,磐越自動車道の起点,国道7号,8号線の分岐点にあたる北陸地方第1の都市である。
(2)中越地方 県の中央部で,信濃川中流域の中越平野(越後平野南西部),鯖石川流域の柏崎平野と越後山脈,魚沼・東頸城・西山の丘陵,および河岸段丘の発達する十日町・六日町・栃尾・小国の盆地からなる。長岡市を中心に柏崎,見附,小千谷,十日町,魚沼,南魚沼の6市と周辺の町村が含まれる。面積は県の35%にあたり富山県より広く,人口は64万(1995)で県の26%を占める。南部の魚沼地方は豪雪地で,南魚沼市の旧塩沢町出身の鈴木牧之の《北越雪譜》(1835-42)に当時の生活ぶりが紹介されている。長岡・柏崎両市の電気・一般機械,十日町市・旧塩沢町の高級絹織物,見附市と長岡市の旧栃尾市の合繊織物,ニット製品などの工業がある。中心の長岡市は,JR上越線,信越本線,国道17号,18号線,北陸・関越両自動車道の分岐点,上越新幹線の停車駅であり,道路整備,工業団地,ニュータウンならびにテクノポリスの造成が進み,県第2の都市として発展している。2004年の新潟県中越地震で,被害が特に大きかったのはこの地方である。
(3)上越地方 県の南西部,荒川(関川)流域の高田平野と東の東頸城丘陵,西の西頸城山地,中部山岳国立公園,上信越高原国立公園地域からなる。上越市を中心とし,糸魚川・妙高両市が含まれる。面積は県の17%にあたり,人口は30万(1995)で県の12%を占める。1893年には信越本線直江津~高崎間が開通,電源開発も明治末から昭和初期と早かったが,現在は県内での産業などの地位はそれほど高くない。荒川上流の関川水系を利用して高田平野の水田化が早くから進められた。またこの水系の豊富な電力を利用して流域の二本木(中郷村,現上越市),新井市,上越市直江津に化学工業がおこり,戦後直江津は臨海重化学工業地域へと発展した。上越地方は一般に多雪地帯で,また地すべり,天水田など環境条件が厳しく,出稼ぎ,離村が増加し,過疎地域となっている。中心の上越市の中でも18世紀に榊原氏の城下町として栄えた高田は,中小の地場産業があるほか商業地域的性格が強く,上越地方の行政・文化に果たす役割は大きい。
(4)佐渡地方 新潟市の沖合30kmの海上に浮かぶ佐渡島は,国府川流域の国中平野と大佐渡山地,小佐渡丘陵からなり,一島が佐渡市となっている。面積は県の7%にあたり,人口は7.5万(1995)で3.0%を占めている。近世までの佐渡国にあたり,西廻航路の中継地として関西と結ばれ,また佐渡金山が幕府直営であったため江戸とも結ばれていた。金山が衰退した第2次大戦後,佐渡は農業,水産業,観光産業を主としている。とくに1960年以降観光客が急増し,両津~新潟がジェットフォイルで1時間で結ばれるなど交通の便が良くなっている。金山の町として栄えた旧相川町は,現在は島の行政の中心としての役割を果たしている。国中平野,羽茂川流域と海岸段丘上は溜池の造成で水田化が進んでいるが,これは鉱山の水替え技術が導・配水に利用され,水路網が発達したためである。国中平野は順徳上皇をはじめ著名な流人の遺跡と神社仏閣が多い。両津湾の砂州上に立地する旧両津市は,佐渡の玄関口で,新潟市からの定期船を迎え,島内のバス交通の起点となり,また加茂湖のカキや,島周辺の漁獲物の集散地である。
執筆者:磯部 利貞
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…北陸道に位置する上国(《延喜式》)。現在の佐渡を除く新潟県に当たる。
【古代】
大化改新以後つくられた越(こし)国の蝦夷に接触している地域で,7世紀の半ば阿倍比羅夫が蝦夷経営に活躍し,渟足(ぬたり)柵,磐舟(いわふね)柵がつくられた。…
…北陸道に位置する上国(《延喜式》)。現在の佐渡を除く新潟県に当たる。
【古代】
大化改新以後つくられた越(こし)国の蝦夷に接触している地域で,7世紀の半ば阿倍比羅夫が蝦夷経営に活躍し,渟足(ぬたり)柵,磐舟(いわふね)柵がつくられた。…
…その産出量はとくに江戸初期に多く,幕府の重要な財源であったので,大量の金銀輸送,幕府役人等の通行のため重視される街道となった。佐渡路には中山道追分宿から分かれて出雲崎(いずもざき)に出る北国街道,中山道高崎宿から分かれて寺泊(てらどまり)に出る三国街道,奥州道中白河宿で分かれて新潟に出る会津街道の3道があって,出雲崎,寺泊,新潟が渡海場に当てられていた。佐渡御金荷は小木港から出雲崎に海上輸送されたあと北国街道を陸送されたので,北国街道は江戸初期に合宿継や寄馬制など特別な継立体制が確立した。…
※「新潟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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