新城城跡(読み)しんしろじようあと

日本歴史地名大系 「新城城跡」の解説

新城城跡
しんしろじようあと

[現在地名]新城市東入船・西入船

豊川右岸の河岸段丘上に立地。天正三年(一五七五)奥平信昌築城長篠ながしのの戦で奥平九八郎貞昌は長篠城を死守した戦功によって織田信長の一字を許されて信昌となり、徳川家康の長女亀姫を娶り当地方で三千貫の所領を給された。信昌は各地を選考した後、当時平井ひらい郷内のごうはらと称されたこの地を選んで築城にかかり、翌四年九月に竣功した(新城聞書)

築城にあたっては、奥平氏の前の居城長篠城(現南設楽郡鳳来町)にならったようで、「新城聞書」に「城縄張リ長篠ヲ写ス、本丸西廓長篠ノ城弾正曲輪(中略)三ノ丸長篠ノ城ニテ六瓢曲輪、今ノ今泉六兵衛殿屋敷也、堀ノ跡土手ノ形井戸ナト残ル、櫓三ケ所ニアリ、大方長篠ノ城家台ヲ用ユ」とあって、長篠城の施設も利用された。

新城城跡
しんじようじようあと

[現在地名]青森市新城

新城集落南方二〇〇メートルの丘上にある。尾根末端を利用し三郭よりなり、東・西・北は急崖をなして堅固だが、南方は小丘陵の尾根続きであるのが欠点。橘次氏の居城で後に安東氏、さらに新城源次郎が拠ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報