新城村(読み)しんじようむら

日本歴史地名大系 「新城村」の解説

新城村
しんじようむら

[現在地名]気仙沼市 瘻槻こぶつき所沢ところざわ茗荷沢みようがざわいわさき川原崎かわらさき田尻沢たじりさわ大林おおばやし百目木どうめき和野わの鹿倉かのくら渡戸わたど金成沢かんなりざわ久保くぼ小芦こあし長岩間ながいわま川上かわかみ落合おちあいぞうはな磯沢いそざわ名木沢なぎさわ前木まえぎ阿霄月あよいづき川崎尻かわさきじり柳沢やなぎざわ

月館つきたて村の南、気仙沼本郷の西に位置。村域は広く、西は笹森ささもり(四六〇・八メートル)を境に磐井いわい(現岩手県)に接し、東西およそ六キロに及ぶが、ほとんどが手長てなが(五四〇・八メートル)の麓に広がる山林地帯で農業と林業の村である。集落は気仙沼川(土陸川。現大川)に流入する二十一にじゆういち川や金成沢川など山間の谷川沿いの狭い平地に点在しているが、そのなかで村の東北部、気仙沼川南岸の台地先端部に多くが集まっている。寛永一九年(一六四二)の検地で独立村となる(武蔵屋長治郎記録)正保郷帳によると田一九貫四二七文・畑二一貫七六二文、ほかに新田一九貫三四七文。


新城村
あらぐすくむら

[現在地名]竹富町新城あらぐすく

上地かみじ下地しもじ二島を村域とする。近世初頭は二島六間切の「黒島」のうちで(両島絵図帳)、北の上地を村域とする上離かみばなり(ウイバナリ)島と南の下地を村域とする下離しもばなり(シィムバナリ)島からなる。両島絵図帳によると上離島一五石余、下離島四一石余。上離島は上地かんじい村、下離島は下地しいむじい村ともいい、崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時に合併して新城村となり、以後石垣いしやなぎい間切に属した。上地村・下地村の称はその後も慣用的に使用され、順治八年(一六五一)の上地・下地二村の人口三二三人(八重山島年来記)。新城村の番所・苧績屋は初め「下地新城」という所にあったが、船着場が悪く蔵元役人の巡見に支障があるとして、康熙二三年(一六八四)上地に移されており(同書)、新城の村名は最初に番所のあった下地の「新城」に由来するとみられる。

平坦で石砂混じりの土地柄で水や耕地に恵まれず、康熙四三年には上納米のみならず飯米にも窮したため、西表いりおもて古見くん村の南一里半にある「大浦やすら」での耕作を願出て許可されている(参遣状)。同五〇年には同島仲間なかま村へ寄百姓、雍正一〇年(一七三二)には石垣島野底ぬすく(現石垣市)の村立てに際し二五人を寄百姓している(八重山島年来記)


新城村
しんじようむら

[現在地名]勝本町 新城東触しんじようひがしふれ北触きたふれ新城西触しんじようにしふれ

可須かす村の南東に位置し、南にかみ(一二二メートル)がある。打田うつたに鎮座する佐肆布智さしふち大神(現佐肆布都神社)を「延喜式」神名帳に記される壱岐郡一二座の一つ「佐肆布都サシフツノ神社」に比定する説がある(「一宮巡詣記」「壱岐神社誌」など)。また河角の中津こうすみのなかつ神社は同じく「中津神社」に比定されている。文永の役の古戦場がある。豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵に際して当地の吉野甚五左衛門末秋・下条玉右衛門尉・岩谷彦十郎吉富らが従軍したという(勝本町史)。慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に新城村とみえ、高六九六石余。慶長国絵図にも村名があり、正保国絵図では高六九〇石余。


新城村
しんじようむら

[現在地名]垂水市新城、鹿屋市有武町ありたけちよう根木原町ねぎばるちよう

肝属きもつき郡に所属。新城島津氏の私領である新城郷新城村として一郷一村をなす。垂水郷高城たかじよう村の南に位置し、東は高隈たかくま山地、南西は海に面して白砂の海岸が続く。海岸に沿って北西の垂水郷柊原くぬぎばる村からの佐多さた筋が通り、新城麓から根木原を経て南東の花岡はなおか木谷きたに(現鹿屋市)に至る。新城麓に中世の平山城である新城(松尾城)跡があり、その麓に領主仮屋が置かれていた。


新城村
しんじようむら

[現在地名]青森市新城

東は石神いしかみ村、南は岩渡いわわたり村、西は支村白旗野しらはたの村と戸門とかど村、北は岡町おかまち村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に高三九一・一八石、うち田方三六一・三八石とある。鎮守金峰かなみね神社(旧蔵王宮)の蔵王宮由緒略記(新撰陸奥国誌)によれば、新城孫治郎が応安年間(一三六八―七五)に勧請したとあり、開村はかなり古いと思われる。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一四三九・四七六石、うち田方一二九〇・七一四石、畑方一四八・七六二石、番所屋敷、漆木一五一本、古館跡などが記される。


新城村
あらぐしくむら

[現在地名]宜野湾新城あらぐすく・新城一―二丁目・上原うえはら・上原一―二丁目

神山かみやま村の北、宜野湾じのーん街道沿いにある。初め浦添うらしー間切に属し、絵図郷村帳では浦添間切のうちに「あら城村」とある。康熙一〇年(一六七一)間切新設により管轄替えとなり、「琉球国由来記」「琉球国旧記」では宜野湾じのーん間切として新城村がみえる。同治三年(一八六四)二月二四日の辞令書(伊江家文書)によれば尚氏伊江王子朝忠の室が「安良城」の名島を賜与されている。また同六年八月一日の辞令書(安良城家文書)によれば蔡氏仲本親雲上政宜が新城里主所の地頭職に任じられている。


新城村
しんじようむら

[現在地名]中央町新城

金堀かなぼり川が北西原田東はらだひがし村へ流れ、その谷を挟んで低山地があり、南部は山地となる。北は越尾こよお村、東は金堀村。もと東山ひがしやま村と称し、慶安三年(一六五〇)羽出木はでぎ村・山之城やまのじよう(現久米南町)、新城村・金堀村となったといい、新城は新庄とも記す(作陽誌)。しかしすでに正保郷帳に新庄村とあり、田方七五石余・畑方四五石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳でも新庄村とあり、改出高一九石余・開高一三石余。


新城村
しんじようむら

[現在地名]水口町新城

水口宿の東にあり、南を野洲やす川が西流し、北は水口丘陵に続く。集落は村南寄りを通る東海道に沿い一〇町余続く街村を形成。中世は儀俄ぎか庄に属し、その新庄とも伝え、村名を新庄と記す場合もある。領主の変遷は林口はやしぐち村と同じ。寛永石高帳には旗本美濃部領とあるが、代官小堀遠州が発給した寛永一一年(一六三四)の物成免状(新城区有文書)からみて誤りと思われる。寛永石高帳では高四一八石余。


新城村
しんじようむら

[現在地名]中原区新城・新城一―五丁目・上新城かみしんじよう一―二丁目・下新城しもしんじよう一―三丁目・新城中しんじようなか

東は上小田中かみこだなか村、西は新作しんさく(現高津区)、南は下小田中しもこだなか村、岩川いわかわ(現高津区)、北は坂戸さかど(現高津区)に接する。南を中原道が東西に通る。りよう用水を利用。田島たじま焼部やけべの小字があり、焼部は小田原衆所領役帳に蒲田助五郎「三貫文 稲毛庄木月郷今井屋けへ方」とある「屋けへ方」に比定される(風土記稿)。田園簿に村名がみえる。天正一九年(一五九一)以降旗本中川領。


新城村
しんじようむら

[現在地名]豊後高田市新城

松行まつゆき村・大力だいりき村の東、山南西麓に位置する。南を都甲とごう川が、北を同川支流長岩屋ながいわや川が流れ、両川は村の西方で合流する。新庄村とも記した(小倉藩元和人畜改帳など)。参宮帳写(後藤作四郎文書)に「とくら(こうカ)の庄新城村」とみえ、天正一八年(一五九〇)九月一七日同村の末田治部らが伊勢神宮を参詣している。


新城村
あらぐしくむら

[現在地名]具志頭新城あらぐすく後原くしばる

具志頭ぐしちやん村の北方にあり、東を雄樋ゆーひ川が流れる。小高い丘の頂に宮があり、南側斜面に集落が形成されている。ガラビ洞穴遺跡や新里しんざと洞穴遺跡などの貝塚を含む遺跡が散在する。やまグスク・新城あらぐすくグスクがあり、新城グスクからは土器・青磁などが出土している。絵図郷村帳・琉球国高究帳では東風平くちんだ間切に属しており、一七世紀後半に具志頭ぐしちやん間切に編入された。具志頭間切新城村と記されるのは、慶長検地で確定した村位を記した御当国中村位定之事(里積記)や呉姓久高家家譜が早い。同家譜では康熙二五年(一六八六)の記事に具志頭間切新城村がみえる。前掲高究帳によると高頭五二一石余、うち田三一四石余・畠二〇六石余。高究帳にみえる具志頭間切五村の合計高の六二・八パーセントにあたり、当村の編入によって具志頭間切の石高は一気に増加したことになる。


新城村
しんじようむら

[現在地名]かつらぎ町新城

紀ノ川中流域左岸の南部山地内を流れる貴志きし川上流部にある。「続風土記」によれば、近世には貴志川上流の花坂はなざか(現高野町)から、下方のみや(現海草郡美里町)にかけた流域を長谷はせ庄と称した。おそらく当村は中世の高野山領六箇七ろつかしち郷内長谷郷(美里町の→長谷郷の地であったと考えられるが徴証を欠く。近世は高野山学侶領とされ、同書は村高九九石余、家数二三、人数一一一、社寺として宮村の丹生にう神社の旧社という丹生明神社、弁財天社、竜福りゆうふく寺を記す。


新城村
しんじようむら

[現在地名]宇和町新城

岩瀬いわせ川中流域の村。北は常定寺じようじようじ村、南は明石あげいし村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「新城村 茅山、柴山、小川有、日損所」と記される。

太閤検地の石高は四二四石三斗九升二合、耕地面積の比率は田七九パーセント、畑二一パーセントであったが、寛文検地では石高が二三パーセントも減少し、田六三パーセント、畑三七パーセントに変わっている。「墅截」による村柄は「上」、耕地は田が「中」、畑が「下」、水掛りは「吉」である。明暦二年(一六五六)にぬた池、延宝四年(一六七六)に野地池が築造されている。


新城村
あらぐすくむら

[現在地名]城辺町新城あらぐすく

保良ぶら村の北に位置し、西は福里ふくざとう村で、北東部は海に面する。砂川うるか間切に属し、宮古島の諸村位定では布上・石上(里積記)。雍正旧記に村名がなく、宮古島在番記の乾隆四年(一七三九)条に新城与人がみえることから、雍正五年(一七二七)頃以降乾隆四年の間に成立したと考えられる。碁盤目型の集落。平安名ぴやうな村と同じく蔵元(現平良市)の南東方にあたり、村番所は村の中央に置かれた。咸豊三年(一八五三)当村の浦に異国船が漂着、唐人二四(うち女二)・オランダ人六名が泳いで上陸したという(宮古島在番記)


新城村
しんじようむら

[現在地名]添田町しよう

北西に向かって流れる彦山川の左岸に位置し、対岸は岩瀬いわせ村、南は庄村。新城は新庄の意で、庄村からの分村とも考えられるが、明確な記録はない。元和八年人畜改帳では高二一三石余、家数二〇・人数三五(うち百姓五・名子一)、牛四・馬二。延享三年(一七四六)の小倉領郡村高辻帳(小笠原文庫)では高一六五石余。郷村高帳では高二一八石余、うち新田高一一石余。


新城村
しんじようむら

[現在地名]天瀬町五馬市いつまいち出口いでぐち

五馬村の東に位置し、北東は本城ほんじよう村。新庄とも書く(元禄見稲簿)。竹田・日田往還が通る。慶長六年(一六〇一)の予州替地御知行所目録(佐伯藩政史料)および同七年の玖珠郡・日田郡御蔵入目録(同史料)では五馬庄の内とみられる。正保郷帳に新庄村とみえ、田高九三石余・畑高九五石余で、五馬庄に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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