朝日日本歴史人物事典 「奥平信昌」の解説
奥平信昌
生年:弘治1(1555)
戦国・江戸前期の武将,美濃国加納藩主。奥平美作守貞能の子。母は牧野成種の娘。通称九八郎,名ははじめ定昌で,のち信昌と改めた。徳川家康に仕え,元亀1(1570)年の姉川の戦には父と共に従軍している。奥平氏の本領である奥三河は,次第に武田氏の勢力が強くなり,信昌は結婚したばかりの妻を人質として武田方に送り,武田氏に降っている。のち家康の家臣本多豊後守広孝を介して再び出仕することになり,三河長篠城の守りをまかされた。天正3(1575)年の長篠の戦は信昌らの籠る長篠城を武田勝頼の大軍が包囲したことが発端となった。信昌は城を守りぬき,この戦いで信長・家康軍は完勝。信昌は功を賞され,人質となったために武田方に殺された妻のかわりとして,家康は長女の亀姫を信昌に嫁がせるほどであった。その後,天正9年の遠江高天神城攻めで戦功をあげ,また,同12年の小牧の戦では秀吉方の武将森長可を羽黒で破り,敵の首級200をあげたといわれている。同15年,従五位下・美作守に叙任された。18年,家康が関東に転封されたとき,上野の宮崎(群馬県富岡市)で3万石を与えられた。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では目立った軍功はなかったものの,同年9月から翌年3月まで京都所司代に任じられ,その間,京都本願寺に潜伏中の西軍の敗将安国寺恵瓊を捕らえ,その後美濃加納10万石に転じた。
(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報