改訂新版 世界大百科事典 「奥平信昌」の意味・わかりやすい解説
奥平信昌 (おくだいらのぶまさ)
生没年:1555-1615(弘治1-元和1)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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江戸初期の大名。美濃(みの)国(岐阜県)加納(かのう)城主。通称九八郎。初名は定昌。父貞能(さだよし)とともに徳川家康に仕え、初陣は1570年(元亀1)の姉川(あねがわ)の戦い。一時武田家に味方したが、まもなく帰参して三河の長篠(ながしの)城を預かる。75年(天正3)の長篠の戦いでは、武田勝頼(かつより)の大軍の包囲に堪えて城を固守し、織田・徳川軍の大勝を導いた。この功で信長から一字を与えられて信昌と改名、またその命で家康の息女亀姫(かめひめ)をめとった。90年家康の関東入封に従い上野(こうずけ)国(群馬県)小幡(おばた)で3万石。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参加、同年9月から翌年3月まで京都所司代となり、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を捕らえた。01年加納10万石。慶長20年3月14日加納で没した。墓は岐阜市加納の盛徳寺。
[高木昭作]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…上野国は江戸城北辺の外郭に当たる防衛線であったから,とくに家康側近の重臣を配置した。まず徳川四天王の井伊直政を榛名山東南麓の箕輪城12万石に封じて信越両国に備え,榊原康政を館林城10万石に封じて常陸の佐竹氏や東北に備えたのをはじめ,平岩親吉を厩橋城3万3000石,奥平信昌を宮崎城(のち小幡)2万石など,万石以上11氏を戦国以来の要城に配備した。初期の諸侯はその後いくたびか改廃があり,中期以後は前橋,高崎,館林,沼田,安中(以上城持),小幡,伊勢崎,七日市,吉井(以上陣屋)の9藩が幕末までつづいた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
その議会の過半数には達しないが、議席数をもっとも多くもつ政党。...