新城町(読み)しんしろまち

日本歴史地名大系 「新城町」の解説

新城町
しんしろまち

[現在地名]新城市ほん町・的場まとばなか町・さかえ町・橋向はしむこう

天正の初めまでは当地は平井ひらい郷の一部でごうはらとよばれていたという。天正三年(一五七五)現在の入船いりふねに新城城が築城されると、その城下町として、また伊那街道の要衝として急速に町並が形成され始めた。町の芝切(開発者)は、「新城聞書」には「町人芝切ト云ハ鈴木助左衛門、後平兵衛ト改メル。吉川村ヨリ来ル、本名豊田氏、丸山九郎左衛門、黒瀬ヨリ来ル、加藤与次右衛門、本宮長山ヨリ来ル、此二人ハ不詳」とある。また同書には長篠ながしの(現南設楽郡鳳来町)の市神の銅製観音像の写、一説には野田のだの市神の石地蔵を土中に埋め榎を植えて市神としたという。当初は新城村と称し、東は田町たまち川を境として平井村、のちの新町しんまち村に続き、西は幽玄ゆうげん川を境として杉山すぎやま村、石田いしだ村のちの間之町あいのまち村に接していた。しかし一般的には新城町と称した。

慶長九年(一六〇四)検地帳(慶長九年検地帳集成)では田一反余・二石余、畑一〇町七反余・一一七石余と耕地は畑を中心として町の北部にあり、屋敷は南町に五七軒、城の西に四五軒の計一〇二筆・三町一反余・四〇石余であった。その後町人の力もあって開拓が進み、他村域でも町人の開発地は新城地と認められたことなどもあって、元禄九年(一六九六)には四六九石余、享保一〇年(一七二五)には本田七八石余、新田三四二石余と記される。新田は新町・間之町を含むか。戸口は慶安元年(一六四八)に二一九軒・一千二七一人、元禄九年に二八四軒・一千一三六人、享和三年(一八〇三)に三九四軒・一千三〇三人。

町並も初めは市神を中心として東をかみ町、西をしも町とよんだ程度であったが、町数も増え、市神から東は本町田町と並んで西新にししん町・東新町に連なり、西には中町下町、さらに医師榊原幽玄によって架けられた幽玄橋を越えて橋向に広がり、間之町に連なった。


新城町
しんじようまち

[現在地名]秋田市旭南きよくなん二丁目の一部

じよう町の南に続き、下鍛冶しもかじ町の西。馬口労ばくろう町から羽州街道への往還にあたる。「久保田おもかげ所収の「船木氏旧記」(県立秋田図書館蔵)土崎湊つちざきみなとから城町などとともに移ったと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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