新城郷
しんじようごう
近世鹿児島藩の外城の一つ。肝属郡に所属。新城島津氏の私領で、新城郷新城村として一郷一村からなる。「三州御治世要覧」に「新城、以前ハ鹿ノ屋一名ニ而候処ニ、其後一所ニ成、一外城立候と申伝事ニ候」とみえる。外城創設の経緯は以下のとおり。垂水島津家三代彰久の室は島津義久の次女で、義久はこれに鹿屋の地を割いて化粧田として三千七〇〇石を与えた。この彰久の妻は新城に居住したことから新城翁主と称され、垂水島津家四代忠仍(久信)を生んだ。忠仍は垂水・鹿屋を兼領したが、その第四子久章は島津家久の女を室とし、家久はこれに化粧田一千石を与えた。寛永一三年(一六三六)新城翁主は化粧田三千七〇〇石を久章に譲り、久章の室の一千石と併せて四千七〇〇石を領有させ、家久に要請し久章を初代として新城島津家を創設した。しかし正保二年(一六四五)久章は藩主光久に背いたため谷山清泉寺(現鹿児島市)で誅され、領地は没収、家は断絶した。承応二年(一六五三)久章の子忠清は垂水島津家六代忠紀(鹿児島藩主島津光久の弟)の養弟となり、家を立てたが死去。
新城郷
にいきごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。平城宮出土木簡に「新木郷丸部五月」とあり、同木簡天平宝字四年(七六〇)銘のものに「新木」とあるので、「にいき」と読むべきであろう。従来岡崎市北部の仁木町をこの地とすることに異説はない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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