日本歴史地名大系 「垂水市」の解説 垂水市たるみずし 面積:一六一・七一平方キロ大隅半島の北西部に位置し、東は北から姶良(あいら)郡福山(ふくやま)町・曾於(そお)郡輝北(きほく)町・鹿屋(かのや)市に接している。北西と南西は鹿児島湾に面しており、その中間の海潟(かいがた)で桜島の鹿児島市域に接している。かつては桜島との間に瀬戸(せと)海峡があったが、大正三年(一九一四)一月一二日の桜島大噴火による溶岩によって陸続きとなった。市域の東には大篦柄(おのがら)岳(一二三六・四メートル)、妻(つま)岳・御(おん)岳・横(よこ)岳・白(はく)山などの高隈(たかくま)山地がそびえ、ここを源流として市の中心を西流する本城(ほんじよう)川をはじめ、多くの小河川が鹿児島湾に注ぐ。流域には平地が開け、市の中南部の高隈山麓に広がるシラス台地は畑作地帯となっている。北部は姶良カルデラの一部で、急傾斜の山地が海岸近くまで迫り、江戸時代はこの山地を利用した林業が盛んに営まれた。現在、牛根(うしね)・垂水・新城(しんじよう)の三地区約四〇キロの海岸線に沿って国道二二〇号(江戸期の佐多筋とほぼ重なる)が通り、人家も国道沿いの海岸平地に集中している。近年温泉の発掘が盛んに行われ、温泉水として全国各地に販路を広げている。海上は鹿児島市と一衣帯水の地にあり、古くより交通路として利用され、現在も大隅半島と鹿児島市を結ぶ海上交通の要衝である。中俣(なかまた)・海潟・牛根麓(うしねふもと)の海岸線は霧島屋久国立公園の一部となっている。垂水の地名は垂水城の台地崖下にあった湧水が人々を潤したことにちなむという。〔原始・古代〕縄文時代の遺跡から中世の城跡までさまざまな遺跡が点在し、多くは台地上と海岸線沿いの沖積平野に立地している。南部の柊原(くぬぎばる)貝塚では縄文晩期の住居跡や土壙墓が検出され、土壙墓からは晩期初頭のほぼ完全な人骨が出土。同時期の保存状態の良好な人骨の発見は少なく貴重である。シオンモイ遺跡は弥生時代から古墳時代の遺跡として知られる。古墳時代の遺跡は多数確認されており、柊原遺跡群のほか浜平(はまびら)遺跡・脇田原(わきだはら)遺跡などで土器が出土している。古代律令制下の市域は、「和名抄」に記載される贈於(そお)郡人野(ひとの)郷と大隅郡人野郷に比定される。贈於郡は鹿児島湾奥部から内陸部にかけての一帯であるが、その南限は桜島付近とみられ、その南に大隅郡が隣接していたと想定される。贈於・大隅二郡にみえる人野郷は、二分されて両郡に所属することになったのであろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「垂水市」の意味・わかりやすい解説 垂水〔市〕たるみず 鹿児島県中部,大隅半島西岸にある市。1955年垂水町と牛根村,新城村の 2村が合体,1958年市制。中心市街地の垂水は中世初頭から垂水城の城下町としてこの地方の行政中心地。明治初期にも郡役所が置かれた。市域は大部分が高隈山地の西斜面にあり,鹿児島湾沿岸の狭い沖積平野では,エンドウの早期栽培や,ミカン,ポンカン,ビワなどの果樹園芸が盛ん。海潟漁港ではカンパチ,牛根漁港ではブリ,桜島口ではタイ,ハマチの養殖が行なわれる。中部には眼前に桜島を望む海潟温泉があり,霧島錦江湾国立公園に属する。猿ヶ城渓谷,高峠高原など景勝地が多い。垂水港と鹿児島市の鴨池港との間にフェリーが就航。国道220号線が通る。面積 162.12km2。人口 1万3819(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by