新居庄
にいのしよう
古代新居庄は、赤石山系に源を発し北流する国領川が、山地から新居浜平野に入る山麓東岸にある船木地区に立地、中世新居庄は、新居浜平野に存在したとみられる。
〔東大寺領〕
大治五年(一一三〇)三月一三日の東大寺諸荘文書并絵図等目録(百巻本東大寺文書)に、天平勝宝八年(七五六)付の文書の存在が記されており、当荘の成立はこの頃と考えられる。
<資料は省略されています>
当荘の四至は、東の継山は関ノ戸、西の多豆河は立川すなわち国領川、北の小野山は郷山、南の駅路は官道に比定されるから、現在の船木地区とほぼ一致する。荘内に池地三町余を含む野地八〇町があった。池地は、柏坂古池とよばれ、現在の池田池の前身と考えられる。
天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書)には「伊予国新居郡新居庄田九十三町 田四町六段百八十歩 畠八十八町三段百八十歩」とあり、全体において一三町歩の増加を示し、かつ開発が進められたらしい。
新居庄
にいのべのしよう
現東高倉一帯に比定される。明徳二年(一三九一)の西大寺諸国末寺帳(奈良市西大寺蔵)に「新居部妙覚寺」、文安六年(一四四九)正月二六日付密乗院禅栄契状(「北野社家日記」宝徳元年閏一〇月一〇日条)に「伊賀国新居事」とあり、「にいのべ」と読む(近世は「にい」と読む)。康治二年(一一四三)八月一九日付太政官牒(安楽寿院古文書)の安楽寿院末寺興善寺院領三ヵ所に、伊賀国「水田弐拾町」がある。この水田が新居庄となったことは、嘉元四年(一三〇六)六月一二日付昭慶門院(憙子内親王)御領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)に、「一、興善院領(中略)伊賀国水田廿町 号新居庄 已上被載于康治官符根本寺領也」とあり、「康治官符」が康治二年の太政官牒をさすことから明らかである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 