新庄城跡(読み)しんじようじようあと

日本歴史地名大系 「新庄城跡」の解説

新庄城跡
しんじようじようあと

[現在地名]富山市新庄

古くから新庄は富山―魚津方面を結ぶ交通の要衝で、城跡は現在の新庄小学校を中心とした一帯にあたる。かつて御屋敷おやしき山ともよばれた小高い場所で、周囲は深田で囲まれ、戦国期の平城の立地にふさわしい地の利を占めていた。永正一七年(一五二〇)初秋越中守護畠山尚順の要請を受けた越後の長尾為景は神保慶宗らを討つため越中へ進攻した。越後勢のなかにあった毛利広春は同年一〇月九日に置文(案、上杉家文書)を記しており、「いこのためニ、ゑんちうしんしやうちんにてかきおく者也」とあるが、これは新庄陣でのことであろう。同年一二月二一日神保方は長尾方の守る「新庄際」へ攻めかかったが、この戦いによって長尾為景は慶宗を敗走させ、自刃に追込んでいる(一二月二二日「長尾為景感状」上杉家文書)。このように長尾方が当地に長期にわたって在陣していることから、当時拠点となる施設が築かれていたと推測され、のち新庄城は長尾(上杉)方によって整備されたとみられる。


新庄城跡
しんじようじようあと

[現在地名]新庄市堀端町

新庄盆地のほぼ中央にあり、指首野さすの川・なかの川の合流点の北方にあたる。かつてはこの地は湿原地帯だったといわれ、沼田ぬまた城・鵜沼うぬま城ともよばれた。元和八年(一六二二)の最上氏改易後、初代藩主戸沢政盛は鮭延さけのべ(真室城、現最上郡真室川町)に入り、寛永元年(一六二四)新庄城の築城にとりかかり、翌年にはこれを完成した。昭和初年まで現存した旧城の橋の擬宝珠に「寛永二年丑三月三日戸沢政盛鋳之」とあったという(増訂最上郡史)。縄張りは政盛の義兄である山形藩主鳥居忠政によるといわれる。元和偃武以後の築城のため、簡素な平城で、軍事的要害というよりは領内統治の中心として縄張りされている。


新庄城跡
しんじようじようあと

[現在地名]安芸市穴内 新城

穴内あなない川河口に接した台地(標高五〇メートル)の東に位置する中世末の城跡。南は海浜、背後は妙見みようけん(四四八メートル)に連なり、台地の上をつなぐ街道を扼している。安芸一帯を支配した安芸氏が、西部からの攻撃に備えた出城の一つで、西方二キロに穴内城がある。

「土佐物語」巻六(矢流崩之事)は、新庄の城を「此の新庄と申すは、矢流より安芸の城下へ六十余町、左は山屏風のごとく峙ち右は海辺逆浪雲を巻き其中に僅かに浜渥の道ありといへども、細砂深くして人馬のかけ引自由ならず、されば山より矢石を放す時は何百万騎の勢成とも、石を以て卯をおすが如くなり」と記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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