新庄城下(読み)しんじようじようか

日本歴史地名大系 「新庄城下」の解説

新庄城下
しんじようじようか

最上郡のほぼ中央に位置し、東は杢蔵もくぞう(一〇二六・六メートル)、西はさけ川流域を境とする丘陵の間にあり、升形ますがた川支流の指首野さすの川・なかの川・戸前とまえ川がほぼ南西流し、指首野川扇状地の湧泉地帯を中心とする。戦国時代末期に日野左京亮がこのあたりに館を築いたという。天正二年(一五七四)と思われる八月一六日の日野左京亮宛の武藤義氏書状写(歴代古案所収文書)によれば、最上義光が弟義時と争った時、伊達氏・天童氏や庄内の武藤義氏は義光に敵対し、武藤氏は日野氏も義光に抗戦するよう誘いをかけている。その後義光が最上郡内を掌握するようになり、日野左京亮はこの地を退去させられたとみられる。慶長一九年(一六一四)の義光の死後、清水大蔵大輔義親は、山形の本家を継いだ異母兄弟の最上家親により滅ぼされた。家親は日野将監を新城におき、清水氏の遺領など二万七千石を蔵入地として管理させた。将監は城や城下町を整備し、新田開発を進めたので、この頃から清水しみず(現最上郡大蔵村)に代わって、新城が最上地方の政治・経済・文化の中心的地位を占めることとなった。この当時は新城と記される。新庄の文字が使われるのは、元和八年(一六二二)最上氏改易後、戸沢氏が入封し、城下町経営が一段落した寛文年間(一六六一―七三)以降である。

戸沢政盛は元和九年まず鮭延さけのべ(真室城、現最上郡真室川町)に入り、寛永元年(一六二四)春に新庄城の改築工事に着手した。縄張りは政盛の妻の兄である山形城主鳥居忠政によってなされた。城下町の整備は二代正誠の時代に完成した。従来東の山麓を通っていた羽州街道を北西に曲げ、金沢町かねざわまち村を経由して城下に引入れた。指首野川の水を分けた三の堀より西側を郭内かくないの家中屋敷地とし、その東を羽州街道が南北に通り、羽州街道に沿って町人町が移された。城下の南北の入口である金沢町村太田おおたには寺院を集中的に配備して防備とし、南の落合おちあい町と北の吉川よしかわ町には木戸口を設けて朝夕開閉した。羽州街道筋はもちろん、道路は各所で直角に折曲げられ、そこに寺社・修験がおかれている。城を中心として家中屋敷地の郭内があり、その東方に羽州街道が通り、南東の金沢町村から北へ五日町いつかまち村・十日町とおかまち村と続く三つの村があり、それらのうちに町場が形成された。これら三村はそれぞれ枝郷として農村地帯をも含んでいた。

宝暦年中(一七五一―六四)新庄家中屋敷割絵図(新庄市教育委員会蔵)によって郭内の武家屋敷地をみると、本丸と二の丸を囲む本丸堀と外曲輪に囲まれた地域(三の丸)には、東中央の鷹部屋、北西の下台所・厩、西側の作事元方・作事所・苗木畑・西丸蔵、南側に長屋などの役所が配され、それらを挟んで名門ないし家老級の広い敷地の家中屋敷がおかれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報